幸せの質量
何をもって「幸せ」なのか?は、それぞれの価値観と人生の意義などの要素で変わってくる。
だから「全ての人が幸せになる」事などあり得ないのだろう。
味の好みでもそうだ。
「私はこの甘みが美味しいと思うから好き」と言う人がいれば
「私はこの甘みが苦手だから好きじゃない」と言う人もいる。
幸せの質量なんてものは決まってるものじゃないと思う。
最近親の死というものを目の当たりにして人生の終わりについて考えたりした。
医者に告げられる「エンディング間近」
その時正直どんな顔してどんな気持ちでその事を受け入れるんだろう。
想像出来ない。
この前、父親が告げられた時僕は間近にいた。
その時の顔は苦い顔と微笑みだった。
自分ならどんな顔をするんだろう?
その時何となくそんな事をぼんやり考えてた。
答えは出なかった。
幸せの質量は決まっているから何人か死んでいくのは仕方のない事なんだよ。
生きる事が幸せなのか?
死にゆく事が不幸なのか?
明日はどうなるかなんて誰にもわかりはしない。
なんでもかんでも断定なんかするな!
幸せの質量は風船の様に膨らんだり萎んだりするのかな?
お腹は空かないけど、晩御飯を食べよう。
明日も生きていかなくちゃならないからね。
続く。