戦後初の「甲子園がない年」……だからこそいま考えたい『野球と暴力』
夏の甲子園中止が決まり、今年は戦後初めて「甲子園のない年」になることが決定した。誰がどんな言葉をかけようと、選手たちの無念、悔しさが晴れるはずがないのは言うまでもない。野球に限らず、さまざまなスポーツで集大成の場が失われてしまった。
県単位で夏の大会の開催を模索する動きは出てきている。緊急事態宣言解除を受け、当面は無観客試合ながらプロ野球の開幕日も発表された。野球に限らず、少しずついろいろなことが戻っていくこれからの期間で、これまでなんとなく続いてきた体質まで元どおりになってしまうか、この機会を変化のきっかけにできるか。いまは大きな分かれ目ともいえる。
本書は「暴力」という切り口から、野球界の構造的問題と、それらを踏まえた変革のヒントを提示する一冊。夏の中止も決まったこのタイミングで、あらためて読まれてほしい。タイトルからはネガティブな印象も受けるかもしれないが、実際は前向きな思いが込められた内容になっている。
野球界の暴力について、その問題点を指摘し糾弾するスタンスをとるのは難しくない。対して本書は、なぜ暴力を選ぶ指導者がいるのか、構造の部分を徹底して見つめていく。問題のある指導者を責めて終わり、ではない。暴力にはある種「効能」がある。その効き目にすがってしまう構造もある。古い価値観にまみれているというならば、なぜそんなスポーツがメジャーな競技として生き長らえてきたのか。正面から現実を見据えなければ、真の問題点も打開策も見えてこない。
たとえば監督に力が集まり過ぎるのも、個人というより構造の問題だ。とくに高校野球は、甲子園の通算出場数、勝利数が多い監督が「名将」として名をはせ、死後もその栄光が語り継がれることが少なくない。一方で、監督は不祥事が起きると真っ先に責任を追求される存在でもある。技術だけでなく生活態度も含めた精神面の指導を求められるのだ。
グラウンド外の行動にも目を光らせなければならないプレッシャーの中で、厳しく言い聞かせようと思わない方がむずかしいだろう。暴力の「効能」は、ここでも顔をのぞかせる。指導者への権限集中は、裏を返せば責任の範囲が広すぎることも意味するのだ。こうした構図の裏には、言うまでもなくメディアの存在がある。
元をたどれば行き着くのは、甲子園の存在があまりにも絶対的になってしまったという問題。強豪校が毎年勝利への過大なプレッシャーにさらされるのも、大黒柱のエースが自分の将来をリスクにさらしてでも投げ続けるのも、それが美談とされてしまうのも、甲子園の存在が大き過ぎるからだ。
開催中止によってその「魔力」が少しでも弱まったとすれば、せめて前向きに変わるためのきっかけにするしかないだろう。「負けたら終わりの一発勝負」をエンターテイメントとして受け止めてきた、私たち観客側も無関係ではない。行き過ぎた勝利至上主義がいかにしてかたち作られ、指導者と選手の関係性に影響を及ぼしてきたかが、本書では端的にまとめられている。
これまでの構造を整理した上で、今後野球界が変わっていくための道筋も示されていく。暴力事件で出場停止処分を受けた後、意識改革を遂げてより強くなって戻ってきた強豪校。球界の体質に流されず、個性的なチームづくりで勝利をつかみ取る指導者たち。さまざまな事例が出てくる中でも、球界では「異端」とされるスタンスを貫いて結果を出してきた先駆者へのインタビューは必見だ。一見すると特殊に見える考え方の中から、これからのスタンダードとも言えるような新たな指導者像が浮かび上がってくる。
甲子園でもよく上位に顔を出す東北の名門、仙台育英で長らく指揮を執ってきた佐々木順一朗監督。高校球界きっての「放任主義」で知られる名将である。「そんなこともできるのか、たいしたもんだな」と選手を褒めることを優先し、気になったことを注意するのはその後。言葉に詰まった時、「先生が言いたいことはこういうことですよね?」と選手が先回りしてくれる瞬間もあるほど関係性もフラットだ。
他校から「緩すぎる」と言われることもあった。放任主義のリスクともいえる、選手による不祥事には何年かおきに見舞われている。それでも、自身が選手時代に理不尽なしごきを受けてきた経験から「暴力一切なし」のスタンスを貫き続けてきた。
高校野球の監督は「総務部総務課総務担当」になるしかない。佐々木監督の唱える監督像は斬新だ。「カリスマになんかなる必要はない。みんなの仕事がうまく回るようにする、影の存在でいいんです」。そう話す背景には、10年間のサラリーマン経験もあるという。チームにひずみをうまないため、ベンチ入りメンバーの選考理由を選手たちに丁寧に説明して回る姿は、気配りを徹底する中間管理職のようだ。現在は福島・学法石川高校で指揮を執り、県内の公式戦で当時49連勝中だった絶対的王者・聖光学院を就任2年目にして撃破(なんとコールド勝ち)するなど、新天地でも早々に結果を残している。
こうした指導者の役割の問い直しに加えて、技術向上のプロセスをきっちりと体系立てていこうとする動きも取り上げられている。野球スキルを段階別に明文化し、10級から1級まで進級テストをもうけて上達度を評価する「野球ドリル」などはその先進事例だ。このドリルを考案した東京広尾リトルの指導者は「そもそも、その子がどのくらい野球がうまいかを示す基準があいまいなんです」と指摘する。基準がはっきりすることで、選手起用について本人や周囲の納得度が高まる効果もあるという。
あえて2時間半しか練習を行わない中高一貫校・札幌大谷が秋の神宮大会で優勝し、日本一に輝く(しかもメンバー全員が道内出身)など、常識を覆す取り組みで結果を出すチームは確実に増えてきている。甲子園で勝つチームの毛色が今後変わっていくのが楽しみだ。
その上で、甲子園とは別の目標を掲げるチームが人気を集めたらいいなとも思う。いろいろな可能性を試して自分の才能と折り合いをつけながら、選手としての方向性を見定めていく。「才能がないことを知ることが大事」と語る指導者の話も出てくるが、自分の適正を見極めることを優先できたなら、引退後も野球が好きなままでいられるはずだ。圧倒的才能の持ち主にとっても、自身の可能性を最大限に広げるルートが「甲子園での活躍」とは限らない。少なくとも「高卒でのメジャー挑戦」を明言すると周囲から良い顔をされない、みたいなことはもうなくなってほしい。
チームごとにさまざまな価値観を持って、打ち出すカラーの多様化が進んだ方が、野球は絶対におもしろくなる。結果的に球界も活気づく。自分の子どもにどんなスポーツをさせるか、親として考えはじめる世代の考え方がどんどん変わっていく中で、選ばれる競技でいるためにも欠かせないポイントだろう。
なぜ野球界から暴力はなくならないのか。その「なぜ」を一段ずつ掘り下げていくことで、野球界のあらゆる問題が芋づる式に露わになる。そこには野球をメジャーなスポーツとして支持してきたメディアや、観客、大きくいえば社会レベルの意識も絡んでくる。構造の理解なしに、これから変わるべき方向性も見えてはこない。戦後初の「甲子園のない年」に、野球界のこれからを前向きに考えるために本書が読まれてほしい。
理不尽なしごきや鉄拳などなくても、徹底的に勝ちにこだわることはできる。頭をフル回転させて野球に打ち込む面白さが詰め込まれた、高校野球の監督が主人公の野球マンガ。名作です。