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『絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか』経済学が自分ごとに変わる本

2019年ノーベル経済学賞受賞者が、移民、経済成長、気候変動、経済格差などの大きくて複雑な社会問題について切り込んでいく一冊だ。

経済学って小難しくてとっつきづらい。人の心理を単純化しすぎで、実感が湧かない。そもそも経済学って、どれほど世の中の役に立つのか? そんな疑問を持つ人も、一度手に取ってみてほしい。さわりを読むだけでも、よくある経済学の入門書とは様子が違うことがわかるはずだ。

第1章は「経済学が信頼を取り戻すために」。この導入だけでも、一風変わった経済学本であることが伝わってくる。経済学者は世間でどう思われているか、2017年の世論調査の結果が興味深い。一般の人々に対して「以下の職業の人達が自分の専門分野についての意見を述べた場合、あなたは誰の意見をいちばん信用しますか?」と質問したところ、経済学者を信頼すると答えた人はわずか25%だった。これは政治家(5%)に次いで下から2番目の結果だ。

経済学者はなぜここまで信頼されないのか? 挙げられる理由はどれも納得感がある。経済学者たちの一致した意見は、たいてい一般の人々の意見とかけ離れている。世相を読んで都合の良いことしか言わない「自称」エコノミストが蔓延している。アカデミックな経済学者は断定を避け、あれこれ含みを残した結論を出すうえに、その結論にいたった複雑な過程を説明する時間を惜しむ。

対して著者らは「複雑で不確実ないまの世界で、経済学者が共有できる最も価値があるものは、結論ではなく、そこに至る道のりだ」と語る。そして「知り得た事実、その事実を解釈した方法、推論の各段階、なお残る不確実性の要因などを共有することが望ましい」とも。これが本書の揺るぎないスタンスだ。

「移民が受け入れ国の住人から利益を奪う」という主張は果たして事実なのか。富裕層への減税は、経済成長を後押しするのか。そもそも富裕国にとって、経済成長は優先すべき課題なのか。不平等はなぜ拡大したのか。取り残された人を救うために、政府にできることは何なのか。一筋縄ではいかない問題について、実態をねばり強く掘り起こしていく。

まさにいま関心が高まっている問題も少なくない。4章の統計的差別やステレオタイプの脅威の話は、人種差別の問題がなぜ根強く残ってきたのかを理解する手がかりになるだろう。ほかにもベーシックインカムに関連して、条件付き給付と無条件給付の良し悪しを議論する場面もある。

とりわけユニークなのは、政策によって救済される人たちの「尊厳」について考える重要さを繰り返し強調しているところ。経済学で尊厳の話? とすぐにはピンとこないかもしれないが、実はここにも社会政策がうまく機能するかどうかを左右する重要なポイントがある。

その一例が、「フードスタンプ」と呼ばれる、無料で食品が買える低所得者支援プログラムについて、受給資格がありながら申請しない人たちがどうしたら関心を持つか調べた実験だ。一方のグループにはプログラムの一般的な説明のみ行い、もう一方には「フードスタンプ」という言葉をいっさい使わず「豊かな買い物をするためのカード」として説明したところ、それだけで後者のグループの人びとは俄然興味を持つようになった。

「自分は受け取る資格がない」と思って給付を申請をしないケースも存在する。子どもを学校に通わせることを条件としたモロッコの現金給付プログラムでは、「一日中村の外で働いているので、子どもが登校したか確かめられない」との理由で3児の親が申請を諦めていたという。話をきくと、もし違反があって給付が没収されるくらいなら、最初から申請しないほうがマシだと父親は述べた。資格が剥奪される恥ずかしさを嫌って、自発的に途中でプログラムから脱退する例も頻繁に見られると示すデータもあるそうだ。

一方的に「受給者」として括られて嬉しい人など一人もいない。ただ配ればいいわけではなく、心理的に負担にならないような工夫をすることが非常に重要なのだ。上記のケースでは、登校を義務づけるのではなく、学齢期の子どもがいる家庭を支援する目的を打ち出すほうが効果的なことが確かめられた。「選ばれた受給者」として扱われる苦しさに想像が及ばなかった結果、客観的には明らかにメリットがあるはずの施策が失敗に終わる例は少なくない。こうした視点は、開発経済学の専門家として途上国で多くの活動をおこなってきた著者たちならではだろう。

これまで見落とされがちだった側面を「これも経済学の範疇だ」と拾い上げる姿勢が一貫している。経済学者にここまで求めては荷が重いのでは? そんな声も聞こえてきそうだが、著者たちはそもそもこう断言している。

経済学は、経済学者にまかせておくには重要すぎるのである。

その主張を裏付けるかのように、現実は経済学者が思うよりもはるかに複雑で繊細なことを示す例が豊富に出される。公務員など一部の職業の給与が他と比べて桁外れに高いために、そこに待ち行列をつくって働かないままの若者があふれ、労働市場が機能不全を起こした国々の事例。銀行部門や不動産市場が未発達な国では、優良企業の成長が遅れ非効率な企業が生き残りやすく、人口増加スピードのわりに経済がなかなか育たないという現実。社会政策は、幅広い想像力と絶妙なバランス感覚のもとに設計、運用されなければうまく機能しないことが本書を読むとよくわかる。

壮大なテーマを扱っていながら、引き合いに出される事例は実感がともなうものが多い。説明の仕方も見事だ。まず具体的な疑問からはじめて、それを考える手段として後から理論が持ち出される。「使いどころ」とセットで理論が語られるので、読んでいて飽きがこない。

内容のわりに非常にとっつきやすい語り口で、学生でも問題なく読めるだろう。大学の講義で苦手意識をもって以来なんとなく経済学に距離を置いてきた身としては、その頃に本書に出会えていたらと読みながら何度も顔を上げた。と同時に、いま読めてよかったとも思う。

本書はビル・ゲイツが「この夏必読の5冊」に挙げたことでも話題になったが、それも納得。世の中がいかに複雑な問題に満ちていて、従来の経済学はどのような限界をむかえているのか。そこを打開するために、いま議論されていることは何か。血の通った目線のもとに概観できる良書だ。

「経済学者にまかせておくには重要すぎる」からこそ、経済学についてもっと多くの人に興味を持ってほしい。そんな切実な思いが文章からひしひしと伝わってくる。読後には、読む前より経済学がもっと自分ごとになっているはずだ。ここに書かれた内容が常識になれば、世の中は間違いなく良い方向に向かっていくに違いない。