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徒然なるままに、タロット 〜司祭と悪魔〜

こんにちは、宝杖美季です。

三回目の今回は、五番目のアルカナである「司祭」と十五番目のアルカナである「悪魔」をまとめて取り上げることにしました。

それにしても、「司祭と悪魔」かあ。
本のタイトルにありそうですよね。
しかも、若干背徳的な匂いが・・・ふふふ。
実際、背徳はテーマの一つだし。

面白いのが、前回の理論で言うと、五番目の「司祭」から次元上昇したのが十五番目のアルカナである「悪魔」になるわけで、やっぱり、人間と悪魔では、悪魔の方が位が上なんですね。
もっとも、悪魔の頭領を光の神子であった堕天使ルシファーとするなら、それもまあ納得か。

そのあたりを踏まえて、まずは「司祭」から。
これを取りあげる気になったのは、やはり前回の「女教皇」からの繋がりで、二人が神の代弁者としての地位にあるのなら、リーディング上、どんな違いがあるのか、興味があったんです。

伝統的なデッキなどでは、このカードは「教皇」を表す「THE POPE.(LE PAPE)」であったのが、ウェイト版ではあえて「THE  HIEROPHANT」に置き換えているそうです。
どうやら、キリスト教会に君臨する教皇ではなく、その教えを伝え広める聖職者の任務に焦点を当てているということのようです。

なんであれ、「司祭」のカードが司るのは、神の法の遵守。
秩序の維持やモラル、良識的な振る舞いなどがテーマです。
デッキの流れ的に面白いのが、これより前の札である、「0、愚者」「1、魔術師」「2、女教皇」「3、女帝」「4、皇帝」は、どれも一人の人物に焦点が当てられていることで、各々については、また別立てで詳しく見ていくにしても、そこに他者が介在していないというのは、注目すべき点です。
対して、この札では「司祭」の前に二人の人物がいて、教え導かれている。
つまり、ここで、個(子)が社会に出て人と関わるためのルールを学ぶんですね。
もちろん、この先にも、「7、戦車」「8、力」等々、一人の人物が描かれた札は続きますが、その背景に社会を見てくと、リーディングの仕方も変わるような気がします。
(※あくまでも、カード単体の意味を深掘りした場合の話で、通常、リーディングではスプレッドを組んでまわりのカードとの関連を読むので、上に挙げたカードも、配置によって社会との関わりを合わせて解釈します。念の為w)

で、私が興味を持った「女教皇」との違いですが、結論として全然違いますね。
「女教皇」が高次元で神との対話をしているーー言い換えると俗世とは切り離されたところにいるのに対し、「司祭」はしっかり俗世に立って人々に教えを説いている。
片や「神秘」で、片や「権威」といったところでしょうか。

この「司祭」が逆になると、堕落、人の道を外れた行為、危険な快楽、などになり、まさに「悪魔」のカードと似通った意味になる。
ただ、私見としては、「悪魔」が「〇〇症」などに通じる個人にとって根深いものであるのに対し、こちらはあくまでも、一時的な気の迷い、いわゆる「魔がさした」というものになるのではないかと。
ただ、やはり大アルカナなので、その「魔がさした」結果がえげつなかったりして注意が必要ということなのでしょう。
「司祭」の逆位置をあれこれ考えていると、私の頭の中には、「スマホを落としただけなのに」という映画のタイトルが思い浮かびます。
スマホを落とすこと自体は「魔がさした」わけではありませんが、たとえば、ストレスが溜まってやけ酒して、結果、スマホをなくす。そして、地獄が始まる・・・みたいな。笑。いや、笑えない。

ということで、続いて「悪魔」です。
ただ、正直に言って、さほど深掘りするものではないですね。
カードそのものに奥深さがないわけではないですが、私にとっては比較的読みやすいカードといえます。
抜け出せない悪習慣。犯罪を含めた自ら身を滅ぼすような行為。特殊な性的嗜好など。
一般的に悪魔が人を堕落させる時のことを思い浮かべれば、リーディングができるというイメージです。
まあ、依存症などを考える際、そこに幼少期のトラウマなどを見ていくカードでもあるので、寄り添い型のリーディングではかなり重要な一枚ともいえます。

これが逆になれば、呪縛からの脱却や、そのための戦い。
本当に読みやすいカードです。

最後に、写真を撮っていて気づきましたが、マルセイユ版(右)は二つをこうして見比べると、「司祭」が「悪魔」にじゃんけんで勝っていますね。
じゃんけんの歴史も文化も知りませんけど、なんかシャレオツ‼︎

では、また次回お目にかかりましょう。
よければ、フォロアーになってくださいませませ☺️

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