徒然なるままに、タロット Short Short 2 「女教皇のジレンマ」
「もー、頭にくる!」
キッチンから聞こえてきたイライラした声に、階段をおりていた僕は小さく首をかしげて顔をのぞかせた。
「どうかしましたか、織衣さん?」
「どうしたも、こうしたも」
怒りに任せてゴシゴシとスポンジを動かしながら、彼女が訴える。
「あとちょっとなのに、落ちないのよね、この頑固な汚れが!」
「汚れ?」
首を伸ばすようにして彼女の手元を見れば、そこには泡まみれとなった四角い漆器がある。
僕は、目を丸くしてつぶやいた。
「・・・その重箱」
「きれいでしょう? 箪笥の奥にしまってあったんだけど、よく見たら隅っこに汚れがついていて」
「それは、まずいですね」
「でしょう?」
深刻に応じた僕に気をよくしたように、彼女は続ける。
「でも、きれいにしてあげたくても、スポンジだと、どうしてもこの角の汚れに届かないの。ーーわかる? このもどかしさ」
「わかりますよ。よくわかります」
言っている間もハラハラしながら、僕は続けた。
「ただ、くれぐれも丁寧にーー」
そんな僕の言葉に被せるように、彼女が訊く。
「そうだ。どこかに竹串ってありません?」
「竹串?」
嫌な予感を覚えつつ、僕は確認する。
「それは、探せばあると思いますが、そんなもの、どうするつもりです?」
「決まっているでしょう。つっつくのよ、この汚れを!」
我慢の限界に達したように応じた彼女に、「やっぱりか」とうなだれて、僕はため息をつく。
螺鈿細工のある漆の重箱。
亡くなった僕の祖母の宝物の一つである。
それがどんなに貴重なものであるか、彼女にわかっているとは思えない。
もちろん、スポンジでゴシゴシしすぎるのも駄目だし、まして竹串なんて、もってのほかだ。
そのことを伝えようと顔をあげかけた僕は、床の隅っこに一枚のカードが落ちていることに気づいた。
(・・・あれ、なんで、こんなところにカードが?)
不思議に思いながら拾いあげると、それは「タロット」と呼ばれる特殊なカードの中の一枚だった。女性が十字架を頂く笏を持ち、膝の上に巻物を広げている。とても高貴な印象なのだが、残念ながら、僕から見ると逆さまだ。
(たしか、「女教皇」というカードではなかったっけ?)
うろ覚えのまま、僕は言う。
「こんなところに、タロットカードが落ちていましたよ」
「え?」
振り返った彼女が、濡れた手をエプロンで拭いてからこちらに向かって手を伸ばす。
つられるようにそのまま手渡したので、彼女から見たらカードは正位置になったことになる。
手元を見おろした彼女が、言う。
「あら、女教皇様じゃない。変ね。一人でお散歩中かしら?」
まるでカードが勝手に動いたように言っているが、間違いなく、彼女の手か足か服について運ばれてきたはずだ。なにせ、彼女は今をときめくカードリーダーで、ちょっと前まで、自室でリーディングをしていたに違いないからだ。
推測する僕の前で、彼女がカードからメッセージを受け取ったように「なるほどねえ」と納得した。
「ここは一旦冷静になって、状況を静観しろってことね」
そこでエプロンを外し、お湯の出る蛇口をひねりながら「ということで」と彼女が宣言する。
「ひとまず、この重箱はお湯にでも浸しておきましょう」
「ああ、それがいいですよ。頃合いを見て、綿棒でぬぐえばすぐに取れますから」
ホッとした僕が、「ちなみに」と尋ねる。
「女教皇の逆位置って、どんな意味になるんですか?」
「逆位置?」
人差し指を口元に当てつつ、彼女は「そうねえ」と答える。
「神経質な女性とか、感情的になって物事の判断が鈍るとか?」
「へえ」
相槌を打ちつつ、「神経質というより」と僕は思う。
(むしろ無神経な行動という気がしなくもないけど、感情的になって物事の判断が鈍るというのは、当たっているのか・・・)
ふだんは慎重で慎み深いほうなのに、変なところでスイッチが入って極端な行動に出たりする。そこが面白くもあり、新鮮だったりするのだが、そんな風に彼女についてあれこれ考えていると、「ああ、それと」と彼女が付け足した。
「重箱のすみをつつくようなところもあるかしらね」
「重箱のすみをつつくーー」
「まさに、それだ! つっつく気満々だったぞ」と納得した僕に、彼女がしみじみ言う。
「なんであれ、私、漆器って好きなのよね」
「そうなんですか?」
「うん。ーーほら、なんか温かみがあって、幸せの象徴みたいだから」
「幸せの象徴・・・」
彼女の横顔を見つめながらつぶやいた僕は、ややあって提案する。
「それなら、これから、もうちょっと普段使いしやすい漆器を買いに行きませんか?」
「行く。ーーえ、いいんですか?」
「もちろん」
「やったー」
両手をあげて喜ぶ無邪気な彼女をその場に残し、僕はいそいそと車の鍵を取りに行く。
表情がコロコロ変わって愛くるしい女教皇様のためにーー。
〜Fin〜