徒然なるままに、タロット 〜女教皇〜
こんにちは、宝杖美季です。
前回、「吊るし人」について書いたあと、次は「女教皇」にしようかなと言いましたが、その後、「法王」にしよう、とか。いや、やっぱり「正義」にしよう。
などと、優柔不断に悩んでいました。
苦手なカードが多すぎる、、。
そんな折、たまたま視聴したyoutubeのカードリーディングで、ある選択肢を一目見て「あ、この選択肢はnoteの今後の展開を教えてくれるかも・・・」と思ったので見てみたら、リーダーさんがカードを切り始めてすぐに飛び出したのが「女教皇」だったので、「なるほど。これは、初志貫徹で行けってことか」となり、素直にこれに取り組むことにしました。
ちなみに、飛び出したカードはその一枚きりで、きちんとスプレッドを組んだ占い結果は恋愛に偏ったものでした、、🤣
ということで、前置きが長くなりましたが、二番目のアルカナである「女教皇」です。
このカード、次元上昇(位が上がる)の十を足すと十二となって前回の「吊るし人」になるわけですが、それだけにどこか似てますよね。あれほど苦そうではないにしても、決しておおらかで悠々とした印象はなく、どちらかというと、窮屈な感じです。
考えてみたら、「女教皇」の特徴の一つである二本の柱、「Jahkin(神の慈悲)」と「Boas(神の峻厳)」に対し、古いタロットデッキでは、「吊るし人」も二本の柱(処刑台)の間に吊るされていましたし・・・。
処刑台が死者の国へと送り出す門だとしたら、「女教皇」の二本の柱は生まれるものたちが通る門なのかもしれません。それは、「吊るし人」の次のカードが「死に神」であるのに対し、「女教皇」の次のカードが繁栄や誕生を司どる「女帝」であることからも推測できそう。
(※最初に明言していますが、あくまでも個人的な感想です。念の為w)
で、「女教皇」のカードを見て、私が真っ先に思うのは、二律背反です。
動と静。
明と暗。
光と闇。
対立する二つのものを表す。
つまり、決して和合ではない。
そこからくる緊張感がこのカードにはあって、すでに言ったように、「なんか、窮屈」って思ってしまうんですよね。
「温泉でも行ってのんびりしません?」って言いたくなるというか。
精神性の高さがあってストイックなところは嫌いではないけど、やっぱりもう少しリラックスしてほしい。
あと、静観?
いわゆる「待ち」のカードでもあるから、そういう意味でも、「吊るし人」に似ている。
大きな違いは、「吊るし人」の前には、それまでに積み上げてきたものがあってそれらを踏まえての内省が促されているのに対し、「女教皇」にはそれがない。
ゼロ(愚者)から生み出されたばかりの創造性(魔術師)。
その目に見えない創造性を、物質的な豊かさ(女帝)へと変換するための過渡期であるのが「女教皇」で、ここで言われている二律背反の根本は、無から有への移行ではないかと。
頭の中にあるアイデアを、いかに形あるものとして産み落とすか。
そのための啓示を待っている人に出やすいカードではないかと思います。
ただ、無というのは目に見えない分、結構厄介で扱いが難しい。
直感を正確に受け取るためには静かに瞑想するのが大事で、それを怠ってがむしゃらに突き進むと、あらぬ方へ向かってしまう危険がある。
思い込みが過ぎれば、偏屈になって孤立していくということです。
そんな寂しい状況は、No thank you。
だから、なんだかんだ、「温泉でも行ってのんびりしません?」は、「女教皇」にかける言葉として間違ってないのかもしれませんね。
うーん、私も温泉行きたいなあ。
なんちゃって。
ちなみに、ウェイト版(向かって右側)の「女教皇」が手にしている書物には「TORA」の文字があり、「タロット」はこの文字の組み替えである「ROTA(運命)」→「TARO」が語源にあるという説もどこかで読んだことがあります。どの本かは忘れましたが、、。
だから、カードリーダーの札とも言えますね。
あるいは、守護カードとか。
なんであれ、神秘的で美しい、スピリチャルな一枚です。
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