子どもおびえる

登校に傷つくのは誰なのか。

友人の友人のそのまた友人の子どもが、同じ小学校に通っていて、しばらく学校にいけないために家でゲームをしているのだと聞いた。

ふうんと応えたあと、ふつふつと嫌悪感が沸き、胸がズキズキといたんだ。

あの、が出てくるのがわかった。
ここでも度々出てくるのだが、わたしは自分の中にヤクザな男を飼いならしている。いや同居している。どちらが前に出るのかどこかで境界線を争っているところがあって、わたしはそれを許しているところがある。彼が暴れまわったハチャメチャな後処理に追われる弊害もあるのだが、その足跡が嫌いではない。
それも自分の生きざまの一つである。


その彼が言う。着物を着流し煙草をふかし、しかし奇妙なことにどこまでも清潔な男。

「ちょっと前のお前さん、これは耳が痛かったろうな。」

そうだ、ほんのこの夏前までのわたしは、子どもの
登校ほど憂鬱なものはなかった。

◆◆

1年生の一学期からわたしの子どもは胃腸が悪くなり、学校給食が始まると、朝おなかを下すようになった。家を出てそのまま家に帰ってくる。前日の給食や夕飯が消化できていないことは、その消化物を見て
すぐにわかった。

腹痛をきっかけに登校渋りがひどくなり、担任面談を皮切りに、わたしの原因探しの旅は始まった。

スクールカウンセラーとの面談中に腹痛の原因を探るよう、小児科にかかることを勧められ、そのままに
わたしは出された胃腸薬を子どもに飲ませた。

腹痛は止んだ。そして今度は心を病んだ。夜中に号泣しなら寝る子どもを毎晩なだめた。聞いているのか聞いていないのかわからない、わたしのなぐさめは、そのまま暗闇に吸い込まれていった。為す術がない。

朝の顔は顔面蒼白で色がない。立って歩くことも難しかった。その彼に、朝いちばんでラムネを口に放り込み、血糖を上げましょうと支援センターに言われた。それは確かに効果があったが、起きたものの、今度は夜間の入眠が4時間かかることがザラになった。

こんな姿を毎晩見ていて、毎朝穏やかに学校に送り出せる訳もなく、もうこんな苦行を強いることなどできないと、まもなく私は子どもに学校を率先して休ませることを選ぶようになった。
学校から、登校していない、の連絡が来るたびに、途方に暮れる子どもの姿が目に浮かび、焦るままに私は外に出て子どもの姿を探しに出かけた。

見つけた小さな姿を、小学生の自分と重ねてみていた。じぶんもそういう子どもだった。ただし誰も迎えにこなかった。いつか自分の子どもにだけは、同じ思いをさせまいと思っていた。


しかし休んでいる彼の姿に疑問を抱くことも多く、また、1人の人間と24時間べったり生活が何日も何週間も出来るわけもなく、わたしは彼を帰りの会だけ連れて行くようになった。それでもいい。とにかく社会を見てこいよ。リアルyoutubeなんだよ、学校って


子どもが1年生の秋に、支援センターでWISC™-IV知能検査を受けるように勧められ、わたしはそれが全ての解決の糸口であるかのようにすがった。

結果はわかりやすい形で出た。それはほとんど、わたしの思っていた結果と同じだった。頭の中ではじぶんは「出来る」しかし、実際には「出来ない」ことが多い。認知機能が高く知能も比較的高いため、そのギャップに苦しんでいることがよくわかった。その、グレーゾーンで彼は迷子になっていた。

そこは不思議なところで、思ったように腕も手も動かないのに頭の中だけが先行して現実を動かそうとする、少し接続の悪いVRゲームのような世界だ。

ああそうなのか、とわかってから、わたしは彼が家に帰って来れないように、週3で家を空けるよう外で仕事をすることにした。

そして彼がじぶんを好きでなくとも、こんなにわたしたちが認めていることを、ひとつずつ教えていった根気強く、丁寧に、ゆっくりと時間をかけて。雨のひとつぶの味を確かめるように。

◆◆

2年生の2学期になる前、支援センターでは、入眠困難の改善のため大きな大学病院の名誉教授を、わたしに引き合わせてくれた。そこでは生活習慣を直すための食事療法を伝えられた。そして、診断を受けるべく通院を勧められた。

ここで、わたしは、それまでの疑問の中で、もっとも大きな疑問の塊が自分に芽生えた。これでは、乳児検診の保健師指導じゃないか。そしてその先生との次回の面談予約を丁重に断り、夏休みは支援センターを休みたい旨を伝えた。

教授から食事改善を勧められても、離乳食の時から食べないものは食べないガンコな子だ。結局おかゆは一度も食べずに、彼はここまで育った。刺身は1歳のとき唯一食べたタンパク源だった。保健師の指導に一つも添えない親子だった。わたしたちのルールで生きてきたところがある。そういう小さな積み重ねで今の親子関係は作られている。恐らく教授のおすすめには今後も応えられない。机上の空論など、この世で最も役に立たない。その害の大きさを身をもって知っている。

彼の入眠にかかる時間は長くて4時間、早くて10分。不安が強く、常に添い寝が必須で、わたしは一日の7、6分の1は人の眠りを眺めているだけの計算だ。それが8年は続いている。この8年がわたしにささやく。「ここは違うのかもしれない」


支援センターで、ここにもう来ないと話した途端、凄まじい剣幕で「お母さんの責任です」という話が繰り広げられた。そうか、あなた側の責任でここを去ったことにはしないというのか。 わたしはそれで構わなかった。彼が来たいというならいつでも連れてくる。わたしはもう、ここに何も求めていない。

子どもは、支援センターの人の前では次回の日程を決めたが、家に帰ると「ママが行った方がいいというなら、いくよ」というのを聞いて、わたしはキャンセルの連絡をした。 これまでの自分が何をしていたのか悟った。わたしは自分のために、この子を連れまわし薬を飲ませ、あのテストを受けさせたのか。この1年半は、ここに書いたことだけじゃ全然足らない。書ききれない。途方もない1年半だった。

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8歳がどれだけ人間として一人前なのか、舐めてはいけない。未完成のくせに、完成に近づこうとする人間の葛藤と淡々とした命の営みは、どんな金にも代えられない価値がある。それはその人だけの宝物だ。一生の財産だ。一生ものなのだ。親であっても邪魔をしてはならない、聖域なのだ。

それがその人の中で繰り広げれることを、見守るのはとても苦しいこともある。わたしにだって時折闇がやってくる。だけど、子どもが背中を押してほしいと無言で言うなら、優しく笑って押すことに決めたのだ。わたしの手だけができることがあるから。

いま、毎朝学校まで子どもと散歩がてら歩き、たまに迎えにいく。子どもの友達と話しながらみんなで、いろんな家を寄り道しながらうちに帰る。たぶんわたしはこの子達みんなに、葛藤があることを知っている。だから一緒に歩いて話す。今日の葛藤を互いに抱き、淡々と歩く。話せば笑える。それでいいじゃない。お互いの全部を知らなくても

きっとこうして、朝と夕に、こうして道を歩く人が
この日本にはたくさんいる。そういう人ほど、一切の声を上げずに、ただ笑って歩いている。この空からは、その人々からの無言の親愛が降ってくるのだ。

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諦めたくなる、一度諦めてみる、だけど諦めっぱなしにもなれない。どこかで、葛藤と向き合わなくてはならない。だれしも。それがたかが人生7年目にきたとしても、不思議なことじゃない。

不登校の領域には、本当に、子どもの数だけケースがある。全員が学校に行かないことを選ぶことが最良ではないのだとおもう。どの程度学校にいく回数が必要か、許容範囲がどこまであるのか。それは、専門家でも、教授でもわからない。その子自身すらわからない。

じぶんが傷ついている場合じゃないよ。ショックを受けてるところじゃないよ。ここはね、笑い飛ばすとこなんだよ。笑い飛ばすんだよ、ほとばしる愛を踏み台に、全身全霊で笑う。鬼もなんにも、追ってきやしねえんだ。