白い林檎
祖父はわたしのものだと思っていた。
白いシャツにカーディガンを羽織り、白い乗用車に乗って保育園に迎えにきてくれた。
赤いラベルの柔らかなパッケージの煙草を吸い、シャツの襟には黒い紐が結ばれていた。
祖父の住む家はわたしの父のものだったが、わたしたちは離れて暮らしていた。大人の複雑な事情はたまにある父の喧騒と口論で大体察していたが、祖父はわたしの中で潔癖な存在だった。
小学校から帰って、祖父の家の玄関を開くと祖父の匂いがした。
なんの匂いかわからない好きな匂いだった。
わたしは色々と理由を作っては祖父の膝に座り、祖父の匂いを纏いながら、わかもとという精力剤をねだった。
それを食べるわたしを祖父は好きだとおもっていた。
祖父の席の横には、5段はあるスライドケースがありたくさんの横線用紙が入っていた。
表紙がどれも同じで何か大切なものが書いてあって、それだけは触らせて貰えなかった。
祖父はますます神聖なものだった。
膝に座るわたしに祖母は退くように口煩く言った。嫉妬だと思うほど頑なになる反面、祖父を気遣ってしぶしぶ降りた。
祖父の席はいつの間にか空席になった。
家の匂いが少しづつ薄らいでいた。
それがわかる頃には、祖父とは白い病室でしか会えなくなった。
どんなにか辛いかと病室の外で大人が話していた。
わたしは祖父の手の甲に浮く柔らかい青い血管を辿ってその部屋で過ごした。
ある日部屋に入ると祖父は天井を指差して久々に話しかけてくれた。
あそこに白い林檎がある。食べなさい。
見上げてもそこに林檎はなかった。
そのまま病室を出たわたしは母に尋ねた。母はおじいちゃんはもるひねを打ったと告げた。
わたしは悟った。例えようもなかった。
大人たちの言葉。
祖父が遠くに行ってしまったことを白い林檎は教えた。
おじいちゃんはもう痛くないの?
それだけがわたしの救いで白い林檎はわたしの絶望に拍車をかけた。
涙が止まらなかった。
モルヒネが変えてしまった祖父の中にもわたしがいた。それは歓喜以外の何者でもないのに。
なのにわたしは祖父がくれようとした白い林檎が食べられない。
どんな林檎だったのかどんな匂いなのかどんな形なのかなにも教えてもらえず祖父はいなくなった。
わたしは白い林檎が食べられなかったことを憎んだ。
かなり長い間、白い林檎を探した。
わたしにくれたわたしだけの白い林檎を祖父に食べて見せたかった。