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あっちも、こっち。今日の会話の振り返り。

どんな出来事があっても大丈夫、
だって愛されている存在なのだから


という話を、2人くらいとした。

2人は同じ趣旨で少し違うけど同じ表現を使った。


それをわたしが言うなら

よく見てよく聞いて疑って疑って疑い尽くし
とにかく一回やってみれば
その感情と出来事が無意味じゃなかったと
おもうときは 誰にでもあるとおもう。
本当に知りたいのなら 知れると信じればいい。

と、なるかなぁとおもった。


つくづく、
こっちサイドでしか 物が見えないタイプだ。


あっちサイドの話に、
ああそうだよほんとそう。
と、100パーセント同意するのだけど
そんな綺麗なもんばっか見てると目が腐るわ
と言いたくなってしまう。


どうにもならない反骨精神とか
トコトン斜に構えた人だとか
そんな人が好きだ。
粘着しないサクッと切れる刃物みたいな。


刃物を持つ人のどこかに罪悪感の匂いがする。

その匂いを嗅ぐと 生きてる、と言いたくなる。

ねえすごく生きてるねぇ。
ちょっと嗅がせてくれないかな。


この斜めな姿勢は自分でも扱いに困る。
それこそ真面目に話を聞けないという弊害もある。
人ともぶつかる。
あと習うだけで学ぶことが出来ないというか
人より会得が遅い。
だけど体得したものを活用することには
まあまあ長ける。


いまの在宅で細々とできている小遣い稼ぎも
過去の延長線で出来ているとか
まあそんな普通のことだけど。


いまの全てが過去の杵柄で、
いましてることが明日をつくってる。
noteなんてまさにそうだ。
書いて分かったことに どれだけ今日救われてるか。


自分の難癖を挙げたらキリがない。
ただ、それも人並みなのかもしれない。
過剰に取り沙汰されるものでもないのかもしれない。

ただ、たまにすごく面白がってくれる人がいて
そういう人とゲラゲラ笑うときを過ごす。
不意打ちで泣いてしまったりする。
思わぬ温かい時間を過ごせてしまったり。


そういうことで
自分の点が線になったのを味わい
ああ歩けた と思い知る。

それがわたしには自覚という言葉の意味と
すごくマッチする感覚がある。
はたまた、自己肯定感とでもいうのか。


誰かを助けるとか 癒すとかいう言葉に
とても違和感がある。

実際 自分がしてることを
そう人に言われることもあれば
あなたは人を助けたいの?と聞かれることもあって
まったくそんな気がない自分を
おまえ困ったもんだなと眺めて諦め、
そんなことできない、と答える。


そんなことできない。
言葉はわたしを救い出し 世界を見せる。
自ら身を救う。
そのために言葉があるのであれば
古代から脈々と この行為は続いてきたのだろう。


常に踏襲。新しさがあるわけではないのだろう。
人は死んで肉体が滅びる。
生まれた人に
新しいものとして見つけてもらえるから
新しくなれるのだろう。

わたしたちは真に孤独で
再現性がないために魅力があり
常に繰り返さざるを得ないという
この二極は
人を人たらしめてる 業のようにも感じる。


まあ、業なんて知ったこっちゃない。
んなもんで飯が食えるかと、
また斜めってる自分がベロを出す。


とにかく、書きたいし
書くというのは 本当に素晴らしいなと
そう感慨に耽っているわけです。ねむたし。

#日記 #note #書くこと