見出し画像

ただしさ

ここ数ヶ月、この何年分かのお釣りのように、とにかく人と会っている。
その中には色々な”ただしさ”を持っている人を何人も目にした。
いやちがうな。
みんな”ただしさ”をもって生きているんだ。


自らただしさを得るべく、学び場で習得したり
ただしさを持つ人の近くで、ただしさを吸い込み
ただしさに満ちた空間で、ただしい空気を纏う。

”ただしさ”が陳列され、多種多様な総合格闘技の
コンペティションのように感じるときもあった。
(ものすごくたのしい時間だった)


いま、”ただしさ”は、自分の中で”但し書き”と同義に感じてる。


どんな形でも人はなんらかの”指針”が欲しいとおもう。
そりゃそうだ。そりゃわたしだってそうだ。
舵を切るアンカーがなければ唯の難破船にすぎない。
重力がなければ歩くことさえ困難だ。

ベクトルを持つことは
ある意味では”条件”を持つことに近い。

決してその重力からは逃れない一方向に進む。
ある意味で支えであり、障壁でもある。
指針であり、惑わしでもある。
依存であり、快楽であり、自負であり、礎と勘違いさせる安定感があるもの
それが”ただしさ”の姿ではないかと感じる。

だからだれでも間違うし、間違えて普通で、それでいいのだとおもう。
曇りなき眼が、いつまでも曇らないなんてうそだ。

曇ってきたら曇ったと反応され
眩しいときは綺麗と言われる。

だけどそんなことで一喜一憂しなくても、ただ安心したい。

このたゆたうカラダが、
じゆうであることに埋もれたい。
わたしの”ただしさ”を疑うこころ こそ、
わたしだけに備わる眼なのだ。

じぶんで見えないじぶんの眼を、
いつも視感されているにすぎない。
常に はだか一貫である。


このからだが わたしの すべてで。


ただ 木綿のように たゆたいたい。