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インシデンツ(6)

翌日になってぼくはリビングのレコード棚から、テディ金山とハワイアン・ウェイブスのシングル盤を取り出した。張本さんと同じようにぼくも薄いビニール袋にいれて保管していた。ジャケットには六人の男が写っている。二人はアロハ・シャツで、残りの四人はスーツ姿だ。スーツ姿のなかにぼくのおじがいて、そして六人のなかには張本さんの父親がいる(かもしれない)。
六人の顔をよく見る。色褪せてやや鮮明さを欠いた六つの顔に、張本さんの顔の痕跡がないか確認する。わからない。張本さんに似た人物はここにはいない。
ジャケットの内側に印刷されたミュージシャンの情報を読む。

テディ金山(歌・スティールギター)
井川卓造(ピアノ)
野々村正善(ギター)
野原猪之吉(ベース)
遠藤昌英(ドラム)
リック杉野(ウクレレ)


「あの、申し訳ないんですが……どうしてぼくに? 調べるなら興信所とかにお願いすることがいくらでもできたんじゃないですか? ぼくはずっと保険業界で働いてきたただのサラリーマンだし、探偵みたいなことはやったことないですよ」
張本さんが組んでいた腕をほどく。片手をデスクのうえに置き、人差し指と中指で交互に天板を叩いた。

「理由って、いりますか?」
「ええ。ちょっとあまりにも張本さんのお願いは不可解過ぎる」
「ふむ」と言って、また指でデスクの天板を叩いた。

ぼくね、父親には会ったことがないんです。ちょっと聞いた話によるとね、おふくろが高校を出た後で働きにでてたとき、たまたま、ドサ回りみたいにしてたこのバンドの演奏を聞いて、なんかの縁でメンバーのだれかと付き合うようになった。それでできちゃったのがぼく、ってことらしいんですわ。
でも、おふくろはだれと付き合ってたか、だれにも言わへんかったんです。なんか理由があったんだと思いますけどね。そのうちに家族もだれも相手のことを聞かなくなって、臭いものに蓋にするようにぼくの父親の話題は出してはいけないことみたいになってて。

おふくろの実家は、鶴橋の焼肉屋を何軒もやってて、割と賑わってる家やったんでね。幸い、父親がいなくともぼくはなんも苦労せんで過ごさせてもろたんです。そういうわけで、ぼくはこれまでそんな父親に会いたいとか、誰だったのか知りたいみたいな気持ちになったことなかったんですよ。

ただ、そうは言ってもね、心の奥底にはなんかひっかかるものが残ってたんでしょね。ぼくと父親をつないどるんは、おふくろが死んでしまった今、この音楽しかないんやなぁ、って思ってから、なんとなく大事にしとかなあかんのかな、と思って。あるときぼくが持ってるこのシングル盤の音を人に頼んでデジタル化して保存しといたんです。それをスマホにいれていつでも聴けるようにしとってね。でもね、ぼく、前言ったように音楽なんか全然興味ないですから、聴ける状態にしといても、まったく聴かなかったんですよ。三回ぐらいしか聴いたことなかったんと違うかな。
それがね、あの晩、野原さんとバーにいって、おふくろの話をちょっとしたやないですか。そしたら、車のなかでシャッフルであの曲が流れて。びっくりしてね。そんで今日話を聞いたら、バンドのメンバーと野原さんが親類やって言うやないですか。これはもう、なんかあるな、と思って。

張本さんは早口の関西弁で説明した。
「もちろん、調査にかかる費用やお礼もさせていただきます。あ、当然これは入社の件とは別件です。内定は内定でお出しします。このお願いを受けていただかなくとも、弊社では野原さんのような人材に活躍いただきたいと考えてますんでね」と張本さんは頭を下げた。


七インチのレコード盤を紙袋から取り出す。紙袋には発売元である太平音響の社名がモノグラムのように印字されている。発売当時のままの紙袋、今や誰も覚えていない社名だ。大阪を中心に事業を行っていたこの会社は一九九二年に倒産している。ハワイアンだけでなく演歌や浪曲などのレコードを出していたはずだが、一九九五年の阪神淡路大震災の際に、元経営者の自宅が半壊し、その後、行方がわからなくなったことから権利がうやむやなって再発なども難しい状態だと言われている。

A面とB面をひっくり返しながら、三回連続で聴いてみる。B面に収録されていたのは「ダイアモンド・ヘッドのために泣かないで」のインストゥメンタル・バージョンだった。歌のトラックを抜いたカラオケとは違う。伴奏のアレンジは基本的には同じだが、歌の代わりにスティール・ギター、ウクレレ、ピアノ、エレクトリック・ギター、最後にもう一度スティール・ギターの順番でソロを取って演奏を進めていく。A面は二分半ほどの収録時間だが、ソロを取る人数が多い分、四分ちょっとと七インチの収録時間のギリギリまで使っている。バンド初のシングルで(結果的に最後のシングルになるが)気持ちが入っているのか、A面よりも優れた演奏に思える。
とくに聴きものなのはやはりテディ金山のスティール・ギター。繊細なビブラートやポルタメントは演歌的なニュアンスを発揮する。泣きが効いている。ハワイアンというジャンルの垣根を超越した印象に残るソロだ。

それからぼくはいつものトレーニングをしてから走りに出かけた。いつもよりも長く、ゆっくり走ろうと思った。iPhoneにいれたランニング用のアプリは、普段のペースを一キロメートルあたり六分ほどと記録している。これを一キロあたり七分まで落とす。奇妙な表現を許せば、ランニング未満の速度、少し速い早歩きぐらいの運動強度だ。このペースなら口を使って呼吸をしなくても十分だ。歩幅をいつもの半分ぐらいに意識する。大げさに意識しないと筋肉が走りに慣れてきたところで勝手にペースがあがってしまう。身体が意識と無関係に気持ちよく走り出していくのを抑制する。無意識を意識下にいれてコントロールする。ホアン・アトキンスとモーリッツ・フォン・オズワルドの音楽を聴きながら、その鋼鉄のミニマリスムの律動と足の運びをリンクさせる。

意識に普段より多くの考える余地が生まれている瞬間が訪れる。

なぜ、そうしたのか、あるいは、なぜ、そうしなったのか。意思と行為の因果的な必然性は、行為者の外側にある他人称的な存在によって規定される。「物的であれ心的であれ、あらゆる行為の必然性は、適切にいえば、行為者の性質ではなく、そうした行為を考察する、思考する知的な存在者の性質であり、なんらかの先行する対象からその行為を推論するその存在者の思考の決定に存する」。デヴィッド・ヒュームの議論を思い出す。外側から規定される因果性。それは自分自身を反省する場合においても当てはまる。過去の自分を振り返り、行為の選択について考えるとき、そこで振り返られているのは過去の自分、つまりは他者性を帯びた自分である。ぼくは張本さんが語った奇妙な理由、とも呼べない語りについて考えていた。偶有性、偶然、インシデントによって他者に後押しされる選択。もっと普通に言えば、きっかけとなる外部からの刺激。

要するに張本さんは他者を待っていたのだろう。いくらでも調べる手段も余裕もあったのにそうしなかったのは、他者が現れなかったからだ。

事務担当の女性(名字が張本となっている。おそらくは張本さんの妻なのだろう)から内定通知書のPDFがメールで届いていた。自分が言った希望年収が書面上に表示されている。

「次の会社、決めたんだ」とその晩、妻に伝える。「そう、自分が納得した選択なら、それで良いんじゃない」と妻は返事をした。
その日のうちに内定承諾のメールを返信した。CCには張本さんが含まれている。「依頼の件については前向きに進めてみます。なにも進展がなかったら申し訳ないですが」と書き添える。事務の女性からは正式な雇用契約書が送られてくる。

勤務先とは、いくつかの事務的なやりとりがあった。引き止めるような話や退職理由のヒアリング依頼があったが、すべて断ることにした。ぼくの退職届は無事に受理される。来月まで本当の意味で仕事をしない空白期間がはじまることになる。その空白をぼくは奇妙な調査に費やすことにする。

(続く)

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