インシデンツ(9)
休暇は残り少なくなっていた。これ以上の調査を進めるには、おじの手帳や井川卓造からの返事を待つ必要がある。待っているあいだに、ぼくは家族で沖縄を旅行した。碧い海や市場に並ぶ濃い色をした魚たちを息子に見せた。まだ沖縄には夏の名残のような空気があった。
羽田に着いた日が、ちょうど新しい会社に入社する三日前だった。ポストには待っていたものはまだ届いていなかった。
スーツケースの荷物を片付けていると電話が鳴った。神田さんからの着信だった。
「あのね、野原ちゃん」
神田さんの声にはいつになく深刻なトーンがあった。
「入社前のお休みのところに連絡して申し訳ないんだけどさ、実は、張本さんが昨日事故で亡くなったんだって。今朝のニュースでもやってたんだけど、高速でスピード出しすぎて、カーブを曲がりきれなくて。即死だって。ぼくのところにはすぐに会社から連絡が来たんだけど、もしかして野原ちゃんにももう来てたかな?」
ワインレッドのテスラが防音壁にぶつかり、フロントが大きく潰れているところを想像した。
「いや、実はさっき旅行から帰ってきたところで、ニュースも見てなかったです。えーっと、それで、会社ってどうなるんですかね?」
「とりあえず、代表代行ってことで他の人が指揮をとるから大丈夫みたいだけどね。野原ちゃん、来月入社でしょ。びっくりだよね。でもさ、仕事の方は安心しておいて、もう良い案件は準備してるからさ」
電話を終えてネットニュースを確認すると横転したテスラを動画で見ることができた。予想よりもひどい状態だ。事故で炎上したのだろう、キレイなワインレッドのボディは見る影もなく真っ黒に焦げている。現場にはあちこちに飛散したバッテリーのセルが落ちていた。乗用車を運転したドライバーは外に投げ出され、駆け付けた救急隊員によってその場で死亡が確認されました。また、この事故では、横転した乗用車のバッテリーから出火し、約二時間後に消し止められました。火事により首都高三番線は渋谷から池尻までのあいだで通行止めが発生しました。ニュースサイトのテキストが定型文の組み合わせみたいに事故の様子を伝えていた。
妻はまだ荷物を片付けている。息子は羽田から返ってくる車のなかで寝てしまっていた。
「次の会社なんだけどさ、昨日事故で社長が亡くなったんだって」
妻は、ビニール袋のなかからお土産を取り出して、会社に持っていくものと実家に持っていくものとを分けているところだった。
「……それで、どうするの?」
怪訝な目でぼくの顔を見た。
「そうだね……まあ、ひとまず働きながら考えるよ」
そうだ、それ以外にどうしようというのだろう。
次の月、入社初日から永田町にある外資の生命保険会社のビルで打ち合わせに参加した。八〇年代に大きな火事を出して廃業したホテルの跡地に、日本の不動産会社とアメリカの生命保険会社が共同で建設したビルだ。
エントランスには古ぼけた木の扉がディスプレイされていた。一瞬、過去にこの場所で置きた大火事の曰く付きの扉かと思い、張本さんの事故のイメージがフラッシュバックした。横転したテスラ。飛散したバッテリーのセル。しかし、ディスプレイの横に張り出された説明書きにはこの扉は、一八七五年にP生命保険が創業した当時の本社で利用されていた幸福の扉と呼ばれるものです……云々と記載されていた。それはそうだ、多数の死亡者を出した曰く付きの扉を本社前にディスプレイする悪趣味な経営者がどこにいるんだろう?
「ご存知と思いますが、業界全体でITのスタッフが足りていないんです。保険がわかって、ITもわかる野原さんのような方にプロジェクトのマネジメントをお願いしたいんですよ」とクライアントが言った。神田さんとは旧知の仲らしい。いつものような仕事だ。事業会社が必要なスタッフを育てられなかった分の肩代わりをぼくらのようなコンサルタントがおこなっている。新しい日常が始まろうとしていた。
「面談、バッチリだったよ。明日から予定通り来てくれってお客さんも言ってた。細かいことは明日受け入れの打ち合わせがあるから」
神田さんはそう言い残して自分の現場に移動していった。新しい会社になっても相変わらず複数の現場を見ているみたいだった。
永田町から麻布十番までは三駅だ。本社のオフィスに戻る途中、iPhoneでボブ・ディランを聴いた。
どう感じる? どう感じる?
家もなくして
まったく誰にも知られていない人のように、転がる石のように
オフィスに着いてラップトップの電源を入れた。そして、ぼくはテディ金山とハワイアン・ウェイブスについて書かれたファイルを削除する。
帰りに張本さんと一緒に行ったバーに行ってみようかと思いつく。が、思い直して、まっすぐ家に帰った。そもそもぼくはあのバーの会員ではないのだった。
井川卓造からの返事はまだ来ていない。父もまだおじの手帳を探し続けている。
(了)
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