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[理系による「アート」考察] 神を具現化する演出としての縄文土器
欧州の方に日本人の無宗教感に関して説明しているときに、
神とは、欧州人だとイエス・キリストな認識が大多数だと思うけど、日本人にとっては自然そのものだよ、
と話すと、妙に納得したような顔をされ、この仮説自体あながち間違っていないと確信したのですが、その後、この説の説得力を増すために実例があった方が良いな~、と色々探しており、いよいよ見つけたので紹介しますね。
で、それは縄文土器です。
縄文土器には、
・そもそも何なのか?
・なぜあの形なのか?
の大きく2つの疑問があるのですが、それぞれ解説するとともに、日本人の無宗教感に関しても補足しますね。
まず、縄文土器はそもそも何なのか?に関して、たくさんの説あると思いますが、自身にとって、あれはお供え用の皿にしか見えないのですよね…。だって、あの飾りは普通の食事をするには邪魔過ぎる…。
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小さいころから日常的に仏壇にご飯をお供えしてきた身としては、恭しい皿であればあるほどお供えとしての道具としては位が高く感じ、縄文土器のあの造形は、その時代の最上のものを敬うための形に感じてしまいます。
では、何に対するお供えかというと、縄文時代には仏教の概念はないので、その時代に認識できる最上のものに対してであり、具体的には、人間では制御不能であり・自身の生死を掌握している漠然とした概念としての自然、つまり神、だったのではないかと考えています。
で、日本人の無宗教感も本質的にはここから来ていると考えています。だって日本人って、偉大な自然の造形物(例えば富士山)を見て思わず拝んでしまう国民なのですから…。
次に、縄文土器はなぜあの形なのか?に関してです。
上記で述べた、自然を神として敬う、ですが、そういわれても、実態のないものを敬うのは実際のところなかなか困難な行為です。
今でこそ日本では神として拝む対象は神道・仏教的なものに具現化されていますが、実際のところ上の概念で拝んでいる人はほとんどおらず、金ピカで煌びやかで恭しい造形なので、とりあえず神様と認識して拝んどくか~、ぐらいの気持ちでしょう(自身もそうです)。
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つまり、神を認識するのは何らかの演出が必要なのです。が、縄文時代にそれを実現する方法としては、金がないので、意匠を凝らした造形を通してしかない気がしており、敬う対象としての神を具現化・演出するために、縄文土器はあの造形になったのではないかと思います。
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カジュアルに言うと、目に見えないモノに対して、のっぺりした皿では敬えず、やっぱ神に捧げるものを入れる道具としてはそれなりに煌びやかじゃないといけないよね~、と神をゼロから想像し、しかもそれを演出してしまう縄文人の気質が、何だか無宗教な日本人っぽいな~、と感じる考察記事でした。