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3.11を首都圏で傍観していた「後ろめたさ」について

3.11について思いを馳せたり考えたりすると、いつもなんだか少しだけ、後ろめたい気持ちになる。

僕は首都圏という安全地帯から遠巻きに見ていただけで、特に何かアクションを起こしたわけでもない。そのくせ、震災の思い出を語るとき「電車が動かなくて大変でさ……」と、いわば一つのイベントを懐かしむような気持ちになっている自分がいる。

2011年3月11日、僕は高校2年生の終わりかけだった。生まれ育った神奈川県にいて、たしか震度4くらいだった気がする。人生で経験した地震の中では明らかに一番大きかったし、小田急線の電車の中で8時間ほど身動きが取れなかったりはしたが、結局それによってなにか傷を負うでもなく、翌日からまた変わらぬ日常を送った。正直に言って、迫りくる大学受験への焦りのほうが、僕にとっては喫緊の問題だった。

そうして安全地帯から遠巻きに見ていて、それでいてある意味で思い出として消費してしまっているから、いまでも震災の話題を目にするとき、後ろ髪を引かれる思いがするのだ。被災者でもなく、何かアクションを起こしたわけでもない自分なんて、ただの野次馬なんだと。



(※)本ブログは、株式会社PLANETSが発行する雑誌『モノノメ 創刊号』について、そのいち編集部員である僕が、個人的な所感を綴ったものです。このブログを通じて、より多くの方に『モノノメ 創刊号』を手に取ってもらい、既に購入いただいた方にはより多角的に雑誌を読む一助としてもらいたいという目的で書いています。

しかし、それは同時に、「被災地の人はみんな傷つき、苦しみ、奮闘している」という貧困な「被災者」のイメージの裏返しでもあった──いままさにクライマックスを迎えようとしている、清原果耶さん主演の朝ドラ『おかえりモネ』を毎朝楽しみに観ながら、そう気付かされた。

『おかえりモネ』では、気仙沼出身の主人公と、その家族や地元の人びとの、じつに多様な「被災者」像が、とても生々しく描かれている。家族を失った者、生業に大きな打撃を受けた者、そして主人公モネのように、たまたまその日地元を離れていた者。それぞれがそれぞれの傷つきや後ろめたさを抱え、その違いが生み出すすれ違いや摩擦にぶち当たりながら、気仙沼や登米、仙台や東京で、2010年代を生き抜くさまが描かれている。美しい海や山の風景を背景にしながら。

「被災者」は一様ではないし、そのバラバラさゆえの衝突がある──考えてみれば当たり前の事実を突きつけられ、「みんな傷つき、助け合って生きている」というステレオタイプな「被災者」像を抱いていた自分を恥じた。


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PLANETSの新雑誌『モノノメ 創刊号』に収録されている、[紀行文]宇野常寛「10年目の東北道を、走る」では、震災から10年後が過ぎた夏に、石巻と気仙沼に暮らす二人の知人をたずねた宇野さんの目線から、そうした「ほんとうの東北」の姿が、生々しく描き出されている。はっきり言って、読んでいて気持ちの良い話はほとんどない。宇野さん自身も「ここは地獄だ」と書いている。「被災者」ではない自分ですら、そこで繰り広げられている人間の“人間らしさ”に、何度も傷つけられた。合間に差し挟まれる写真の、ただシンプルに美しい東北の風景とのギャップが、余計に抉ってくる。しかも恐ろしいことに、『おかえりモネ』とは違い、これはすべてノンフィクションだ。

旅に出る前に最初に決めたことがある。それは「いい話」とか、「ひどい話」を探しに行くことは絶対にしない、ということだ。ただその土地を歩いて、目にして、耳にして、触れたものを淡々と記録すること。その上で、その意味を考えることをこの旅のルールにした(pp04-05)

しかし、そうして決して気持ちよくはない現実を直視し、宇野さんの言葉を借りるなら「前向きな諦め」に達することからしか、真に建設的なアクションは生まれないだろう。

被災された方々たその関係者、また何らかのアクションを起こしてきた方々はもちろん、僕のように「何もしなかった」「安全地帯にいた」ことに対する何らかの後ろめたさを感じている人こそ、まずはこの現実を受け止めるところから、はじめるしかない。

もちろん、あらゆる問題をあらゆる人びとが自分ごと化することは不可能だし、その必要があるとはまったく考えていない。でも、僕はまず、直視したくないものも含めて、できる限り「淡々と」見ていくことからはじめたい。


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