神の存在

 神社で引いたおみくじが「凶」だった。しかも内容は、“華やかな運も尽き、自暴自棄になる。“と堂々と記された残酷な宣告であり。思わず、「クッ」と謎の効果音を悔しさと共に口から炸裂させてしまった。

 私は神を信じている。というのも、宇宙はまだまだ謎だらけ。という理由からだ。宇宙の誕生。地球の誕生。そしてまた地球は、太陽の加護によって生かされている。

 これは、確率的に、科学では太刀打ちできないものなのだ。
 
 では、そのような抽象的な思考で全てに納得するのか?と問われたならば、そうではない。

 科学で解き明かされたこの世の謎は、まだ末端にすぎないけれど、それは自分が“どのように納得しても、証明ができないならば実在しない“のと同じ。そういった信念を持った科学者たちの誠実な態度でもあるからだ。

 だとするならば、神はいずれ科学的に証明されるだろう。それは人間の想像通りの真実かもしれないし、それとはまた全く異質な姿かもしれない。

 私たちはまた、マトリックスの中にいるプログラムにすぎないかもしれないし、そういった人間の想像を遥かに越えた世界からの産物かもしれない。

 現在では超能力と言われるようなものも、未来では常識にすぎなくなる。例えば電波。私たちは携帯電話で当たり前のように通信しているけれど、伝書鳩を活用していた古代シュメールの人々にとって、それは理解しがたい超能力のように感じるだろう。

 本来、科学と宗教は共存関係にあるべきはずだ。つまり、この二つとも、この世界の真理を追求する勇気を持っている。ただし、そこで受けとり方にギャップが発生する。

 宗教は、神を畏敬的、超越的な存在と捉えていて、その枠をはみ出すことに後ろめたさを感じている。科学はそのタブーに侵入し、それを証明する為ならば、様々な知略を巡らす性質を持っている。

 こうした対立構造は普段の人間関係にもあてはまる。礼儀を尊重すべきか、本質を尊重すべきか?の葛藤だ。礼儀は互いの阿吽の呼吸を尊重し、行きすぎた本音はタブーだとか、KYだとかに形容される。あまりに本音に固執しすぎると、本筋から脱線して水掛け論になってしまうので、長期的な本質を見失わない為に、あえて目先の本質を捨てる高等テクニックであると言える。また、その姿勢は。人々を争いから守ることから、繊細な現代社会にとって不可欠な法則になりつつある。

 しかし礼儀に偏りすぎると、目先の本質を捨て続けるがばかりに、かえって長期的な本質を見失うことになる。とある宗教の人々、そして繊細な現代人が不安になる理由はまさにこれだろう。あまりにも抽象的に偏ると、それは自らの判断を迷わせてしまう。そこでやはり、具体的な、実用的な。本質的な解答の重要性を知る。その結果、“自分“を思い出して迷いから脱出することができるのだ。

 こうしてみると、科学も宗教も、礼儀も本質も、抽象や具体も。全て表裏一体であり、二人三脚であることがわかる。時に、どちらの世界も受け入れる精神。それらは、本来“気づいているつもりになっていた“霧がかりの世界を照らすヒントにもなるだろう。

 と、いうのも。絶対的な仮定をすると、大きな視野で物事を見るのが困難になる為、リフレッシュとして自分が特に重要としていなかった世界を探検する必要性。そこには意外にも探し求めていたパズルのピースがあるものだ。深呼吸して落ち着けば、それは誰かの為でなく、自分の為であると思えるはずである。

 さて、「自分の為であると思えるはずである。」なんて偉そうに言ってみたものの、おみくじは「凶」だ。なんてことなんだ。どうしよう。何を正当化しても、このおみくじがいきなり「大吉」に変身することなどない。クッ…。

 でもよく考えたら、「凶」を引いたのは“今年“だ。つまり、この「凶」は今年の一年しか効力がない。となると、来年には「大吉」になる可能性がある。

 もし、そうであるなら。「凶」によって散々ボロボロになった挙げ句、それをキッカケに起死回生の手を打って、来年の「大吉」に繋がるということだ。

 そう考えると、もはや。この「凶」は「大吉」でしかない。なぜなら、この「凶」が無ければ、来年の「大吉」に繋がらないし、軌道修正ができないからだ。

 その逆もありえる。例えば今年「大吉」を引いたとする。それは最強の効力を持っていて、いきなり自分のタイプである女性10人から告白される。モテキという奴だ。その中の一人を選べばいいものを、「大吉」の力によって全員めちゃめちゃタイプなのだ。つまり、A子、B美、C菜。DEFGHIJK…全員に手を出してしまう。そして、「大吉」なので子宝運が最強。全員妊娠してしまう。するとどうなるか?天使10人全員が一斉に悪魔に変わり、私に攻撃を仕掛けてくるだろう。

 そして“来年の「大凶」“に繋がり、裁判や炎上、物理的な復讐によって私の人生はゲームオーバー。燃えかすも残らない灰と化す…。「大吉」、怖すぎ!

 そんな妄想をして、手に握りしめた「凶」を正当化するのに一生懸命な初詣だった。神も私の想像力に爆笑しているに違いない。

 けれど、あながちバカにできない要素もあるはずだ。私の妄想にも信憑性はある。

 それは、おみくじの本来の効果は、“今年“と“来年“のコンビネーションによって発揮されるというもの。おそらくこれは日本中で、私しか気づいてない真実だ。

 だから、例え。今年が「凶」だとしても、その「凶」は来年の「大吉」へのチケットかもしれないね。そうやっておみくじを科学的に解析してみたが、いかがだろうか?

 一番やばいパターン?今年「大凶」で、来年「大凶」のパターンだろうね。笑 あだ名が“死神“になりそうだ。笑

 でも、来年のおみくじの結果なんて誰にもわからない。今年どんなに微妙でも、「凶」→「大吉」、「凶 」→「吉」、「大凶」→「大吉」、「大凶」→「吉」の可能性はかなりの確率で存在すると言っていい。

 だとするならば。おみくじなど。恐れるに足らない紙切れだということだ。


 …ヤバイ。またこういう舐めたこと書くと、来年に「凶」または「大凶」を引いちまいそうだ。おのれ~!


Mr.J-Boy

 

 

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