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ばあちゃんの存在と私の半生②


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(5)ばあちゃんと、”何”か


祖母が母にキツいのは知っていた。
そんな部分は好きじゃないが、それでも私はばあちゃんが好きだった。

私を優先してくれる時が多くて、私の味方でいてくれることが多かったし、私と多くの時間を一緒に過ごしてくれたのはばあちゃんだったからだ。
そしてばあちゃんは、私にとってかけがえのない心の拠り所だった。

小学二年か三年生の時に、特に思い入れが強くなった。
それは私が、知らない男性に性暴行を受けた時だった。


近所の商店街付近で、学校の友達2名と遊んでいた時に、知らない男性に声をかけられた。ただ、他の子たちはその男性を知っていてしゃべっていたので、警戒をしていなかったと思う。
そのうち私だけ裏路地に呼ばれた。家の建物の裏で地面は土なのに、そこにはなぜか毛布が数枚落ちていた。

そして、ズボンを脱がされた。メゾピアノの犬の刺繍が入った、お気に入りの黒と白の千鳥格子柄のズボンだった。
起こったことが、”何”なのかよく分からなかった
黄色やピンクの毛布の上。あとは、生臭さや土臭さと、覆いかぶさられる息苦しさ、暗さ、重さ。
暗い、暗い、暗かった。

行きは自転車に乗っていたが、気づけば、自転車を引いて帰っていた
呆然としていて、でも悪いことをしたような気持ちが強くて、怖くて言えないと思った。でも、早く家に帰りたかった。無かったことにしたかった。

帰宅した時、母はいつも通りにばたばたしていた。
姉の通院だったか、夕飯の買い物前だったか。覚えていない。
顔を見ても、特に何も「おかえり!」くらいで、ばたばたしていた。
当たり前の日常だから、これが当たり前だし、私が母の立場でも、そういうときは”そう”だ。それが当たり前なのだ。
だって、その日は何もない日常の一日なのだから。

でも、私は何かを過剰に期待していたのかもしれない。そのまま、ばあちゃんのところへ行った。
ばあちゃんは、私の顔を見て「どうしたの?何かあったの?」と言った。

私は”何”かを隠したまま、ばあちゃんにくっついた。そして、なんだかわからないまま泣いて、そのまま寝た。

母は悪くない。
最初に母に期待した私は、それだけ母が好きなんだと思う。

ただ、そこから更に、ばあちゃん子になった。


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(6)隠した秘密と、思いこみ


私は自分が遭った一件については、忘れるように自分に強くはたらきかけるようになった。
”思い出さないように”
”なにも無かったように”

そのうち、”何”があったのか、本当に思い出せなくなっていた。

実はその後、隙が多くて愛想だけ良い私は、中学2年生でまた別の男性から性暴行を受けることになる。
その時はもう、生きて帰れればそれでいいと思っていた。
そして、その時に初めてではない様子を知り、小学生のころ”何”があったかを「やっぱりな」と思って、これも隠すことにした。

高校時代は、一年の時に少しひどい痴漢被害に遭い、その時は学校の人に見つかり隠しきれずそのまま学校に連れられ保護された
保健室で一時保護になった私は、担任の女性の先生が顔を真っ赤にしてぼろぼろ泣きながら、私の制服を洗ってくれているのをぼんやり見ていた。
何か溜まり溜まった自分に、とても疲弊した気持ちだった。

小学生時代と中学生時代の件を知らない母は、学校から痴漢の報告と被害届の件の相談を電話で受けていたようで、帰宅すると「痴漢くらい、まぁよくあるわよ。私も昔痴漢にたくさん遭ったわ。まぁゆっくり休みなさい」と笑った。
警察には、届け出なかった。
以降、普通に学生生活はそこそこ楽しんではいたが、比較的保健室登校が多かった。

色々なことを知らないだけで、隠されていたのだから、母は悪くないのだ。
悪いのは隠していた私だ。

中学の時も高校の時も、傷ついた時に勝手に心の拠り所にしていたのは、ばあちゃんだった。
すぐにばあちゃんに会いたくなった。

最初の時の影響だろうか。
ばあちゃんがいればリセットされるような気持でもあった。
私にはばあちゃんがいる。
そんな、お守りのような思い込みだった。


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(7)地方への転居


そのうち父の会社はどんどん大きくなり、父は経営に飽きてきた。
仕事は現場を離れ、支店には知らない社員が増えてくる。つまらなくなってきていたのだと思う。アドレナリンが出る仕事が減ってしまったのだろう。

会社を友人に任せることにして、地方移住を決めた
酒や魚のおいしい場所に行きたいと、気づけば勝手に決まっていた。

資産である会社を手放し、新天地で一から同じ仕事で会社を創り、成長させる予定だったようだ。不動産は初期投資がすさまじい。ハイリスクハイリターン。
後で思えば、本当に無一文のような状態になり、本当にまた会社を成功させたので、すごいとは思う。

とはいえエスカレーター式の美大付属学校へ通っていた私はとても嫌だった。夢だってあったし、学友たちと大学まで切磋琢磨できると思っていた。
しかし、「学費を出しているのは俺なんだからお前の意見は関係ないだろ」と詰められ撃沈。

一人暮らしできる年齢の姉も「妹が一人でかわいそうだと思わないのか」と詰められ、結局むりやり連れていかれることになった。

この家は、命令と抑圧だらけだった。

話合いは無いし、ヒエラルキーが全てだ。
低序列の人間に発言権は無いし、好感度や根回し、政治も大事だ。
皆が陰で貶め合っている節すらある。

おかしい部分はたくさんあった家なのに、思いこむことで平穏を保ちたい私は、反抗期は多少あったものの、父の法律に従うことで得られる生活はそういうものとし、普通より良い環境なんだと思っていた。
中学・高校・大学と、私は親に多額の学費を出してもらい、私立の女子校を選んで進学させてもらえた。
食うことにも困らず比較的裕福な暮らしを送ることができていることは事実で、私は裕福であり幸せであるのだ。
家族に悲観していなかった。

姉はこのおかしさに不満を抱え続け、時折まっとうに反発していた。
だが、父にものすごい勢いで弾圧され、ぎしぎしと軋むように本当に苦しんでいた。

私はというと、冷戦で培った感覚で、あちこちにいい顔をして仲良くやりすごしていた。色々麻痺していく中でも、苦しむ姉を見ては、姉は下手だなあと思ったりもしていた。

家庭はおかしなバランスのまま転居し、そこから緩やかに崩れていく。


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(8)崩壊の始まり


崩れたきっかけは、何度かあった。

一つ目は姉の失踪。
姉は転居して一年もたたず、家を出た。

無理やり転居に連れてこられた姉だが、実は恋人を残してきており、それまで抑え込まれていたものがついに限界を迎える。耐えられなかったのだ。
姉からしたら、父の弾圧はとても恐ろしいもので、恐怖政治そのものだった。

仕事面はすごいが、父はどう見ても極道で、口も荒く、力でもねじ伏せる。
おまけに子供があまり好きではなかったので、経済力の無い無力な子供たちは常に馬鹿にされてきた。暴言や物を投げる、蹴るはよくあり、怒鳴られれば汗が止まらず本当に恐ろしかった。

姉は、私よりも自分を大事に持っており、反発が多かった。でも、家では息をするのすら辛かったようだ。
それもそのはず。
父は自分に反発する、気に入らないものに対しての攻撃性が、異常だった。
姉はどんどん追い詰められて、生気を失い、行き場を失っていった
それはまるで、ひどいパワハラで、呼吸ができなくなって会社に行けなくなってしまうようなものと、まさに同じようなものだった。

そして、姉はある日、夜中に書き置きの封筒をいくつか置いて家を出る

私はただただ、「置いていかれた」と思った。
姉は幼いころから良き仲間だった。身体の弱かった姉も大きくなるにつれ障がいもなくなって健康になり、私をとても可愛がっていた。
おかしな家で、一緒に手を組んで戦い続けた理解者であり相棒のような、大事な存在だった。姉が大好きだった。

出ていくことは私は知っていた。
それでも、捨てられた。一緒に家を出ようと話していたのに。そんな気持ちでいっぱいだった。ショックだった。

姉が出て行った朝。
「円満な家庭」を演じることに重きを置いていた一家内に衝撃が走る。
そして、父の反応に皆が注視する。
姉をしばらくひどく罵倒したあと、父は「姉を無かったことにする」方針を強制しだした。

姉の名前を口に出すことも、怒られるようになった。
うっかり口にしようものなら「誰だそれ?そんなやつ知らねぇな。変なこと言って、お前バカか?」と言ったり、「てめぇ今なんつった!?ああ!?」と怒鳴られたりする状態だった。

ここから不和が始まる。
ばあちゃんは、「姉を無かったこと」に出来なかった。

特に私を可愛がっていたばあちゃんは、姉に入れ込む様子はあまりなかったが、それでも孫である。「姉を無かったこと」になり始めた状況に反発し始めたのだ。
また、ばあちゃんは父に対しての認識が甘かった。ばあちゃんからすれば、昔は自分が厳しく躾けていた”息子”であり、暴君といえど自分の手の中だという認識はまだ持っていたと思う。

父に反発したばあちゃんだが、もちろん父以外は皆反発すると思っていたであろう。当然仲間になると思っていた母は、胸を傷めながらも表面上父側につき、こそこそ姉を支援する体勢を選んでいた。
母は、そういう人だ。矢面に立つことをとにかくうまく避ける。2対1だ。

ヒエラルキー上一番上はばあちゃんだったが、攻撃的な時の父は一番上になる。父は激高し、ばあちゃんをひどく攻撃した。

私は2対2になるためにばあちゃんの味方をしたが、火のついたような父の罵声に耐える毎日がしんどくて、ばあちゃんも私も、結局途中からあまり反発しなくなっていった。

長期にわたり「姉は無かった」ことになった。

これは時間が解決してくれ、後から頭を下げに通った姉の努力により、何とか和解が徐々にされ姉が実家の敷居をまたぐようになってからは問題なくなった。
ただ、あの時確かに、ヒビの入っていた家庭が、割れ始めた。

(※なんか消しちゃってたので再UPしました…)

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