他人が何をしたかよりも自分が何をするかこそが大事ですが
バッハの曲を練習していると、よく「バロックの語法」とか言われるのに出会うし、ポップスの曲をやってると「ポップスの語法」とかのしたり顔に出会う。
かと思えば、「ブラームスの語法では…」とか「フランス音楽の語法は…」とか。
若い頃はそういうのが気になっていたけれどもそれらも可能性に過ぎない、と今は思っている。
そういう「○○ガー」みたいなのはどの分野にもいるものだ。
そういう話しのときには「楽譜は不完全だ」とか平気で言われるけれども、その語法の情報は奏法のパレットの上のごく一部に過ぎない。
一面、そういう情報はありがたい。そうやっていろいろな語り口や読み方の着眼点のヒントが増えるからだ。だが、問題はそういう「語法ガー」の情報に盲目的に従ってしまうことだ。そうではない。大事なのは、演奏者として多くの可能性を武器にできることなのだ。さまざまな語り口の中からどれを選ぶのかは演奏者自身の問題だからだ。
例えばハイドンの作品の演奏をしているときにバルトークピチカートを加えることは本当に邪道なのか?実はやったことがあるのだが、要は演奏効果として有用かどうかなのではないだろうか。
ポップスの作品をやる時に、敢えてクラシックな発音を用いたり、あるいはクラシックの演奏にポップスの語り口を用いたりするのも、それは「禁じ手」ではないように思う。
クラシックだから必ずevenでなくてはならないとかではないのだ。その取捨選択は演奏者のセンスの問題なのだ。
やってはならないのは、その「語法」とやらの「誤用」ではなく、むしろ、フレージングやアーティキュレーションを勝手に変更することなんじゃないだろうかと常々思っている。
楽譜に記されているフレージングやアーティキュレーションを変更するのは、演奏者の気分とか技術的な問題であることが多い。「自分の感性に合わない」からという言い訳からではなく、なぜそう書かれているのかを考えることの方が重要なのだ。僕はハイドンの交響曲を演奏する時に今でもなお「ランドン版」を用いる。それはランドンがいくつかの可能性から合理的にそれを整えている、その編集方法が面白いと思うからだ。その編集意図の上で敢えて残した可能性を発見するのは演奏者としてとても面白いことだと思うのだ。それについてはベートーヴェンで結局、旧版を使用するのもどこか似ている。※誤植?と思われるかもしれない箇所も、敢えて従ってみるなんてこともよくやることではある。
大事なのは演奏者自身がどう考えて楽譜の可能性を生かすことができるかなのだ。歴史ドラマに「史実ガー」がチャチャを入れるのと同じように、ひとつの他人の演奏に対して「○○ガー」がツッコミを入れるのは野暮なことだ。演奏者は自信を持って語法の取捨選択を行うべきなのだ。