長い軌道と運動の支点によるコントロール〜ベルリンフィルのK.201を聴いて
単なる音響と音楽の違いは、その音のグループによって意味を持つことである。ひとつの音響自体に意味を持たせるのは日本的、あるいは東アジア的な感じ方なのかもしれない。それは「漢字」という文字の影響なのかもしれない。つまり、文字自体が意味を持つ言語文化だからだ。その発想はそれなりの個性として魅力を持つ可能性はある。チェリビダッケが禅の世界に興味を持っていたらしいことも、西洋文化の観点とは違う、なんらかの新しい何かを見出したかったのかもしれない。
だが、とりあえずは、日本語文化圏の特徴を自覚することに留めておき、その違いからヨーロッパ文化圏の音楽のあり方を知っていなければ「理解」は難しいだろう。
いくつかの音がグループを形成してなんらかの形を作る。そこに意味が生ずる。そして、その意味がある種の体系を成すことで「論理」として帰結としての構成力を持つ。音楽とはそれである。
だが、大事なのはその論理をグループ的に分断させた状態で羅列させるに過ぎない演奏と、それらをもう少し広い範囲で結ぼうとふる演奏との間には大きな差があるということだ。
主語と動詞を中心とするごく短い論理を並べていく前者のような演奏はわかりやすい。だが、それは音響の羅列とごく近い点では失敗なのではないだろうか。
遠心力を持つ運動というのはそこに何かしらの集中力を発生させる。例えば、ジェットコースターのような運動だ。ジェットコースターの軌道が長ければそれだけ集中力を集める運動となる。その過程には山があり谷がある。しかし、それらがひとつの軌道としてまとまって、ひとつのアトラクションを形成している。演奏においても、そのひとつの軌道を長い視野で捉える視点とそれを実行する運動が必要なのだ、と最近考えるのだ。
あるいは新体操のリボンのコントロールも参考になる運動性かもしれない。長いリボンをその先端まで自在に動かすにはその長さとそのリボン運動の支点への意識の視野の問題だろう。
ベートーヴェンop67の第4楽章はそういう視野で見なければならない典型なのだ。
例えば、最初の2つの小節を鳴らす程度の視界しかない演奏では、主題の最初のフレーズさえ、その全容がわからない。音響がしっかりしていても音楽として集中力を集め、惹きつけることはできない。D759の最初の8小節をひとつの弧の中に括れないようでは、この「序奏」の形はわからないし、そのテンポ感すら伝わらない。演奏者は単語やフレーズを語るのでは足りないのだ。帰結のある論理自体を語る勢いがなくては所詮は音響の羅列しかできない。
先日聴いたペトレンコとベルリンフィルのK.201の演奏が何が凄かったのかというと、普通の演奏ならば足をつけてしまうような視界の先を見通した息の長い見通しで歌い通しているからだ。それはカルロス•クライバーの指揮するベートーヴェンop92でのオーケストラの集中度と共通するものがある。
軌道の短い演奏は足をつけてしまうのが早い。支点を掴んでいないリボン運動では、リボンはすぐにだらしなく床についてしまう。そんな演奏だから、塊の羅列と同程度になってしまう。だが、集中度の高い演奏はその着地点までの軌道がとても長いのだ。普通の演奏と彼らの演奏に見る集中度の高さの違いはそこにある。ジェットコースターのひとつのループが長ければその分外側に押し付けられるような遠心力が強くなる。そのループの組み合わせでどうゴールまで引きつけるのか。あるいはリボンの支点でリボンの先までを動かせるような把握で掴むことが絶えることのない運動の理由だろう。
それらは演奏について大きなヒントになるのではないだろうかと思うのだ。そして、自分たちの演奏に集中力が集められない時、軌道と支点の把握の甘さに気づかねばならないのだ。