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全てを知ったうえで、自分の進むべき道を決める

数10年前に取り組んだビゼーの交響曲。ここには可愛らしいメヌエットがある。けれどもトリオの部分にはとんでもない仕掛けがある。育ちのいい目から見たら、これは誤植かもしれないと言って書き換えられてしまいそうな和音が顔を出す。でも、敢えてそのままやってみると、それはそれで方言ぽくて、その品無さが面白い。

ベートーヴェンop67第4楽章7小節目辺りからだが、トロンボーンパートは似たようなフレーズなのに、付点四分音符と2分音符とを明らかに描き分けられている箇所がある。その描き分けを意識して全体の歌い方を変えて演奏したらなかなか面白い。※黒歴史もあったけど😅

これらは、どれが正解とかではない。
ただ演奏者が「知った上で」どちらの道を「選ぶ」かだと思っている。※ガリレオシリーズの「真夏の方程式」みたいな事言ってる笑

さて、視点はやや違うけれど、「レトロ」の楽譜読んでてふと思った。「K」の2、4小節に出てくるスラーで括られた2分音符の三連符見てて、「これの歌い方がー」とか言われてるんだろうなぁと。だけど僕にはその三連符が三連符として聞こえるのかはあまり興味はない。というよりどうでもいい。それよりも面白いのは6小節目だけが違うこと。ここで大事なのはリズムが「三連符ではない」ことじゃない。「ここだけスラーがない」って言う事実なんだ。
こういう差別化こそ大事なんじゃないかな。

「たなばた」のときも、37小節めからのレガートなメロディに対して多くのパートの発音がスラーで括られる。だが、ユーフォニアムの四分音符の動きだけはスラーがない。こういうところこそ、「なぜなんだろう?」「スラー無しを意識やったらどうなるのか?」なのではないだろうか。実はその通りにやってみたのだ。そうするとその後の2分音符とのやりとりでテューバと連携する際、スラー無しの四分音符の方が動きが面白かった。作者がどう言うかは知らないけれど、楽譜にそう書いてあるのを優先してみる、強調してみる。それが大事だと思っている。

これらはハイドンのランドン版とのお付き合いの影響だろうなぁ。

ランドンは多くの資料から可能性を指摘した上で、編集方針に従ってアーティキュレーションを統一する。その方針を知った上で、その例外的な箇所を発見しては面白いと思って演奏に利用する。そうやって過ごしてきたから、楽譜を読んでいて「差別化」する目が育てられたと思っている。

そういう姿勢を「あざとい」と言って悪くいう人もいるのだけれど。育ちが悪いもので(笑

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