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06 | 最後の前衛いけばな人、下田尚利④

2024年2月22日/記

(敬称省略)

 いけばな改革を唱えていた下田尚利にとっての最大の矛盾は、家元継承だったのではないか。本人が私との対談「道行」で「家元という肩書は居心地が悪い」と言っているくらいだから、矛盾は十分に承知していた。1983年に父親である大和花道家元の下田天映が死去し、「継がざるを得ない」ことになり、翌年家元を継承した。その事情に一歩踏み込んで、下田の家元問題について考えてみたい。

                                                                        下田尚利、大和花道家元を継承 1984年                                             

家元継承は不幸?

 下田の家元継承の数年前、前衛仲間だった勅使河原宏も家元を継承している。1979年に父親の蒼風が死去し、宏の妹である霞が二代目となるが、じきに父親の後を追うかのように死んでしまった。結局、宏が1980年に草月流家元を継承する。当時のことを彼は次のように回想している。
 自分が継がないと「組織はガタガタになる。ガタガタにしてそれで済んでしまうものかどうか」。悩んだ末、門下の人たちのために継ぐほかないという結論に至ったものの、「大変な戸惑いがあったし、やりきれなさが」あったという。それどころか「非常に苦しみ」「一時はすごく絶望的になりました」とまで語っている(注1)。大組織トップに就任するというのに、えらくネガティブである。それほど嫌だったのか。

 技能の継承という意味では、組織の経営面などを切り離した上で、優れた弟子に譲ればよいと私などは思う。しかし、そうはいかないようなのだ。家元というのは、合理的に割り切れるものではないらしい。

 下田が70歳代半ばの頃だったと思うが、私と二人で雑談していた時のことだ。彼が「僕も歳だから、大和花道の次期家元を決めなくちゃならないのでね」、と語った。「息子も娘も跡を継がないと言っているので、君も知っている山田尚俊に継がせようと考えた。弟子の中では一番生けられるからね」。それで下田は古参の師範たちに相談したそうだ。そうしたら「養子縁組をして頂きたい」と言われてしまったと、苦り切った顔で語った。
 私は「まさか! 私財の相続にも影響してしまうじゃないですか」と言って、つい笑ってしまった。一般企業でもなくはない話だと思うが、社長交代と家元交代では、だいぶ事情が違うようなのである。
 
 家元は、法的に規定されているものではなく、名乗ろうと思えば誰でも名乗れる。事実、いけばなの流派は数多く、かつては1000以上の流派があると言われたし、今でもおそらく300以上はある(注2)。ほとんどの場合に家元が束ねている。それほど無造作な世界なのに、一方で、まさかの養子縁組という話であり、どうも妙である。
 誰でもなれるが、一定規模の流派だと、下田が二代目という歴史の浅い流派でさえ、「家」の系譜が求められるということなのか。いかにも日本的と言いたいところだが、家元についてもう少し知らないと、問題に踏み込めない。この方面の代表的研究者・西山松之助の『家元の研究』(注3)に学びながら、自分なりの把握を試みよう。

(注1)「勅使河原宏・大河内昭爾」『前衛調書 勅使河原宏との対話』学芸書林、1989年。
(注2)いけばな界の最大団体が「日本いけばな芸術協会」であり、その機関紙『花』第47号(2022年刊)に258流派の自己紹介記事が掲載されている。これらは実際に活動を続けている流派だと見てよいだろう。この協会以外にも団体があるし、無所属の流派もあるだろうから、日本全体として現在300以上の流派があると推測される。いや、もっと多いかもしれない。
(注3)『西山松之助著作集第1巻・家元の研究』吉川弘文館、1982年。初出は『家元の研究』校倉書房、1959年刊。

家元制度は江戸時代から

 西山によると、「家元」と「家元制度」は、その構造が違うという。家元の方は、そういった名称で呼んでいたかどうかは別にして、古くからあったようだ。平安時代の貴族社会では、歌道や雅楽などに実質的な家元がいたのである。例えば、天皇が「歌仙正統」のお墨付きを与えた藤原長家の御子左みこひだり家は、定家に至って和歌師範のブランドを確実なものとした。その後は分裂や断絶などがあったが、今もその流れが冷泉家などに続いている。
 
 ちょっと脱線する。私は同志社大学に学んで?いたので、たまに近くにある冷泉家(上冷泉家)の前を通ることがあった。「なんか古くて暗い屋敷だな」との感想しかもたなかったが、かつては勅封!だった「御文庫」を守り伝えるための家である。当時は屋敷全体が非公開だったから、古い暗いは当然の光景だったのかもしれない。貴族の文化遺産を永く密かに守り続けた一族が住んだ、誇りと同時に悲愴感さえ漂う屋敷だったのである。
 
 話をもとにもどそう。貴族社会に見られる家元的な存在は、さらに種類を増やしながら武家社会や寺院社会に広がっていった(注4)。けれども、今日の私たちが思い浮かべる家元制度は、江戸時代に入ってから生まれたという。しかも本格的な成立は江戸も中期の18世紀中頃というから、長い歴史の中では比較的新しいのである。その担い手は、大都市の富裕町人や農村における富裕層の人たちである。 
 新興の文化人口の激増とともに、それに対応するため、家元を代行する中間教授機関(名取、師範など)が成立してくる。出来上がったのが、家元の直弟子、孫弟子、又孫弟子など、幾層もの上下関係で組み上げられた世界だ。そして、相伝などの権利の一切は家元が独占していて、以下がきもだが、弟子がどれだけ増えようとも絶対権力者としての地位を保つのである。

 今でも各種の免状を出す権限やその収入は家元のものだと聞くが、この時代から続く慣習なのだろう。なお、「家元」という語の芸能分野での初見は宝暦7年(1757)とのことだ(注5)。語の登場は、家元制度の確立と無関係ではあるまい。

(注4)江戸時代には広い分野で家元がいた。西山によると、化政期か天保頃に発行された一枚刷りの家元案内『諸流家元鑑』前編があって、そこには31分野が掲載されているという。興味深いので、以下に列記しておく。
 神道、仏道、修験道、儒道、医道、陰陽道、亀卜、衣紋、諸礼、算法、花道、茶道、香道、申楽、幸若音曲、和歌、笙、篳篥、笛、琵琶、箏和琴、神楽歌並歌曲、左ノ舞、右ノ舞、書道、画工、蹴鞠、連歌、俳諧、囲碁、将棋である。西山は、後編に邦楽や武道、民衆芸能などが掲載されていると推測している。
(注5)宝暦7年刊の「馬場文耕の『江都著聞集』に見えるのが初見」(『家元の研究』)。

家元制度の性格

 家元制度下では、弟子は「すべて家元と擬制的な家族的結合をなし」「あるいは主従としての無限定的な規範による結合紐帯で統一される」(『家元の研究』)という。ちょっと解りにくいが、次のようなことではないか。
 「すべて家元と・・・」については、弟子が流祖の名前などの一字、二字をもらう名取りの慣習がその一例である。流派が単なる個人の集合体ではなく、擬制の家族として特異な結び付きをしていた、と西山は見ている。確かに、今でもいけばな流派の一部には、家元の名前から字をもらって名乗る、名取りの慣習が残っている。
 
 私は、いけばな界に関わった頃、「親先生」という言葉を聞いて、戸惑ったことがある。のちに、直接指導を受けた師範のことだと知った。直に教わった先生を重視する意味があるのだろうが、「親」という言葉を選ぶところに擬制家族の匂いがする。
 また、あるシンポジウムでのことだ。流派を出て無所属になった若手が参加していたのだが、ある大流派の幹部がボソリと語った言葉が耳に残った。「親のない子では、ね」と語ったのである。その時は何のことやら解らなかった。が、あとで師匠の教育と後ろ盾のことだと気がついた。指導者や支援者はどの世界でもいるが、「親」と呼ぶところが興味深い。
 
 「あるいは主従として・・・」は、様々な暗黙のルールによって家元と弟子の間に主従関係が結ばれ、流派は一体化している、といった意味ではないだろうか。
 
 相伝のあり方には時代が反映していた。一子にだけ相伝するのが一子相伝で、古くからある相伝形式の一つとのことだが、長子相続制が一般化した江戸時代には、家元制度の根幹の一つとなった。その基本は、長男から長男へ、世襲財産として特権的立場を伝えていくのである。
 なるほど、家族に擬した集団の中で家父長的権力をふるうのが家元であり、集団の頂点には長男がふさわしい。もちろん現実には多様なケースや慣習があるようだし、今では娘が継ぐことは普通になっている。ただ、いずれにしても、多くの場合、血縁や疑似血縁が求められるようだ。
 
 ここまできて、下田が面食らった養子縁組の意味が分かってくる。そう、江戸時代の慣習が色濃く残っているわけである。西山はこう指摘している。「家元家父長的権力は、法律や警察力によって合法的に保障されている近代的な社会的権力ではない。むしろ家元は、近代社会として発足した明治のはじめに、法律や新しい制度としては完全に置きざりにされてしまった分野に属しているものが多かった」(『家元の研究』)と。

仮説 ダブルスタンダードの「私」

 置き去りにされたのは、制度だけでなく、様々な慣習もそうだ。いけばな界には、前近代的な慣習が、思わぬ所に、地雷のように埋め込まれている。例えば代作。先回紹介した長井理一の赤提灯をぶら下げた屋台作品には、お品書きに「花展代作料」などの代金が書き連ねてあった。裏家業を風刺しているわけだが、代作やそれに類似した事例は、ある程度の頻度であると思われる。

 美術でもありうる話で、発覚すれば依頼した本人は致命的な打撃を受けるが、いけばな界ではそうでもないようなのだ。ただ、私はいけばな界の内部に立ち入ったことがないので、そうした裏事情を具体的に知っているわけではない。以下は、おぼろげな仮説の範囲だと理解していただきたい。
 
 いけばな界における代作(代花)は、依頼した人に「やましい」といった感情がそれほどないように思われる。多くの出品依頼を受けて忙しい流派トップ層などは、ともかく義理を果たさねばならない。また、名門家の未熟な若者とかでも、出品する以上は、人様が見て恥ずかしくない作品を出さなきゃならない、といった様々な事情を抱えている。昔は、死んだ人の名前で出品されていたこともあったらしい。
 そうした出品は、自己表現以前に、まずは儀礼なのだ、というのが私の判断である。いけばな展は、現場制作(いけ込み)が基本であり、たいていの場合、誰が制作しているかを多くの人が見ている。発覚しないはずがないのだが、誰もコトを荒立てない。暗黙の了解があって成立しているのである。

 もちろん「私」の作品という観念が一般的であることは誰もが知っているわけだから、代作が常態ということではないだろう。これはという展覧会には本人作、そうでもない展覧会なら時々は代作でもよいか、といったような使い分けがあるのかも。ともかく、いけばな界内部の人しか分からないルールがあって、許容されている、といった感触である。
 
 代作ではないが、こんなこともある。大学(芸術系)で教えていた時のことだ。ある学生のレポートを読んだら、たまたまいけばなに関することが書かれていた。「いけばなを習っていた時に、出品した作品に師匠が手を入れるので、嫌になって習うのを止めてしまった。どんなに下手な作品でも自分の作品は自分のものだ」と。ごく当たり前の理屈である。
 ある流派幹部の主催するいけばな展を見にいったら、会場でその幹部が弟子の出品作に次々手を入れていた。その幹部に聞くと、「お客様にみっともない花を見せられないから」だと答える。その幹部には、悪いことをしているといった考えも感覚もまったくなかった。作品の顔に少しお化粧をしてあげたくらいの感覚、だから礼儀なのである。
 
 いけばな界の師範や弟子の人たちに「私」の観念が薄いかといえば、そんなことはなく、まあ普通だと思う。ただ、家元制度下に入った「私」は、そこでは様々な慣習を受け入れ、使い分けながら、ダブルスタンダードの「私」になっていく。
 しかし、考えてみると、これは日本社会の「組織と私」の関係として一般的な傾向ではないか。いけばななどの近代化から置き去りにされた分野に、より濃厚に潜在しているだけのことなのである。

「継がざるを得ない」とは

 とはいえ、濃厚なダブルスタンダードの世界へ、なぜ下田は回帰したのか。自分が起業した会社の方は成功していたので経済問題ではない。家元制度の弊害など百も承知だし、回帰すればつまらない慣習に付き合うはめになる。回帰する理由があまりないのである。
 
 家元を継承した当時、下田は『産経新聞』に、「父の正統を継ぐという意味での家元になどなるはずがない」、そうではなく「(父が)結び続けてきた人間関係を継承するのだと思っている」と記している(注6)。父親の人間関係の延長線上で自分が関わりをもつことができた人たち、それはいけばな界の先輩たち、仲間たち、後輩たち、門弟たち、等々を指すものと思われる。
 
 まずは門弟についてだが、冒頭で引用した「継がざるを得ない」というのは、門弟たちのためである。流派の継続は彼らの人生に関わる重大要件なのである。
 いけばなと美術ではシステムや事情が違うので単純比較はできないのだが、美術でも1960年代前半くらいまでは、作家にとって美術団体は重大要件だった。どの団体の公募展に入選するか、さらに団体の会友、会員になれるか、等々が作家の評価や地位に直結したのである。あの岡本太郎が二科会を脱退したのが1961年であった。それが早かったのか遅かったのかは微妙だが、新聞各紙が報じる程度には象徴的な事件であった。

 その後も美術団体は存続し、数を増す無所属作家たちと並立状態になるが、現代美術は後者を中心に展開していくことになった。では、いけばな界はどうかというと、今も無所属で活動する人はごくごく稀である。小規模ながら現代いけばなと呼ばれる分野も成立しているが、活動をしている人のほとんどが流派に所属している。だから、今現在も、いけばな界全体が流派を基本として成立しているのである。

 どの流派のどういった地位にいるかが、いけばな界での立ち位置であるし、いけばな人としての誇りや生きがいに直結する。まして、いけばなを教えて収入を得ている場合には生活問題にもなる。門弟のことを考えたら下田の家元継承は避けられない事態だったし、勅使河原宏もそうだったのである。

(注6)下田尚利「家元の継承とは?―同じ道の父と子」『産経新聞』1984年6月16日号(『いけばなと私』求龍堂、2016年所収による)

家元継承の積極的理由

 ただし、以上は下田の「継がざるを得ない」理由ではあっても、家元継承の積極的な理由にはならない。ここで、私は下田に謝らねばならない。下田の家元継承について私はずっと矛盾の側面のみを見てきたが、この論考を書きながら、見逃してきた側面が気になってきたのである。積極的な理由の方を見ていなかったのではないか、と。

 下田の活動の中でも、思想的骨格がはっきりしている「新世代集団」の前衛運動に、私は目を向けてきた。しかし、あらためて振り返ってみると、下田は、それ以前から関わりのある「いけばな創々社」について、たいへんな愛着をもって語っていたことに気づかされる。
 
◆「僕はこの創々社に参加したのがいけばなの出発点だった。相当激しくやり合いましたよ、あのメンバーは本気だったという気がする。研究会が毎月あって、それが自分のいちばん勉強でした。山本斉月、森一森、白沢春草、斐太光風、飯村素治とか、新しいいけばなを志す人が目の色変えて毎月集まってきた。会場は大和花道の会館です」(対談「道行」)
 
 戦前から父親が参加していた「第二日曜会」が創々社のルーツである。流派を超えて集まった研究会であり、毎年展覧会も開催し、1970年に活動を停止した。家元継承時に父親の人間関係を引き継いだと語ったが、その筆頭がこの創々社で出会った人たちだったのではないか。
 『産経新聞』では、こう記している。「私はこれまでにこの世界の最もすぐれた先輩たちと親しくお付き合いできたし、その方たちがはな・・をいけておられるところを、間近で見せていただく機会も多かった」と。創々社が自分のいけばなの出発点だったことを誇りとしていたわけである。

内側からの改革

 いけばな界には悪習と言っていいような負の部分があることは確かだし、下田はいつも、そうしたことにイラ立っていた。しかし、いけばな界には尊敬する先輩たちがいるし、かつての仲間にしても、工藤昌伸は早くから回帰し、勅使河原宏も家元を継いだ。重森弘淹は、鋭い批判の目を向けながらも、いけばなへの愛着の心を隠していない。後輩たち、とくに70年代以降の若い現代いけばな世代には勢いがあった。
 こんな状況下で、下田は、清濁あわせ呑むかのように、いけばな界のど真ん中に回帰した。批評家的立場を捨て、今度は内部からいけばな改革を目指すのである。四半世紀ぶりに作家活動も再開した。ただ、いけばな界での改革運動は、いわば沼地で行動を起こすようなものだ。足に絡みつく泥をかき分けながら進むほかない。下田の苦労は果たして報われたのだろうか。その答えは・・・。

(最後の前衛いけばな人、下田尚利④ おわり)


⇐ 最後の前衛いけばな人、下田尚利⑤(最終回)

 
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