Flying換気扇Button
ある日の暮れ方のことである。
水玉カエルは一人で、キムチ鍋が出来上がるのを、換気扇の下で待っていた。
辛くてしょっぱい食べ物が大好きな私にとって、キムチ鍋という存在は最高だった。
野菜も肉もモリモリ食べられて、カプサイシンも摂取できて、非の打ち所が無い。
アドレナリンもバンバンでるし、シメはうどんでも、ラーメンでも、雑炊でも良い。
何を入れても美味しい。そして、嬉しい。
ただ、そんなキムチ鍋にも一つだけ欠点があった。
それは、辛いことだった。
はい? ええ、間違っておりません。
あっております。
辛いことが問題なのでございます。
そう、つまり何が言いたいのかと言いますと、わたくしめはともかく、家族が辛党ではないのです。
キムチ鍋は、許可制なのでございます。
そんなキムチ鍋の許可がおりた、私はそれだけで既にキムチ鍋一回分のご機嫌を手に入れていた。
具材は家族に切るのを分担して貰い、その後私はキムチ鍋が吹きこぼれないよう、見張り役を担った。
キムチ鍋には好物しか入れなかった。
大根、木綿豆腐、ニラ、ネギ、たくさんのキノコ、鶏肉、ちくわぶ、その他。
ドンドン透明になっていく大根を見つめながら、食べ頃を今か今かと待っていた。
鍋から舞い上がる湯気を浴びながら、たまにお玉で具材を混ぜたりしていた。鼻歌と下手クソなダンスが止まらなかった。
大根に竹串を挿すなんて繊細なことは出来ず、菜箸で大根が煮えたかどうかを確認した。
煮込みはじめて20分くらいたったであろうか。
スポンと菜箸に大根がささり、食べ頃を教えてくれた。最高の瞬間だった。
キムチ鍋の完成に、あまりにも嬉しくなった私は、換気扇とハイタッチするような心持ちで換気扇を止めた。
ッッパーン!!!
チャリーン
カラコロカラ
いつもより強いボタンの戻る音と、聞き慣れない軽い音に、ミトンで鍋を掴んでいた両手がモフりと止まる。
いつもと音が違うぞ?
私は目をまん丸くして換気扇を見つめた。
先程止めたはずの換気扇は、ゴウゴウとうるさく動いているままだ。
あれ?
私は少しの沈黙のあと、ウロチョロした。
音の原因が知りたくてたまらなかった。
ゴウゴウとうるさい換気扇に目をこらすと、使っていた「強」のボタンが歯抜けになっていることに気が付いた。
そうか、換気扇のボタンだ。
築年数年上マンションの換気扇のボタンが、ついにふっとんだんだ。
ミトンをモフりとおいて、ふうとため息をついた私は、ボタンを回収した。
そして、どうにかなるだろう根性と、中途半端な器用さで、落っこちたボタンをカチャカチャと組み立て、差し込もうと思った。
中々綺麗に組み立てられ、満足した私は、早速元に戻そうとボタンの穴に差し込んだ。
手応えを感じ、期待を込めて手を離した途端、ボタンはスポーンと飛び出て落ちた。
短気でせっかちで待てない私は、ムスッとしながらガリガリとボタンを差し込み続けた。
しかし、どうにもうまくいかない。
グリグリ
バキッ
「……あ」
ボタンのパーツに亀裂が入る音がした。
引き際を決めるというのはとても勇気がいることだが、私は決断した。
もう、無理だね!
ボタンのパーツを榮太郎の缶カランに入れた私は、ションボリした声を繕って大家さんに電話をかけた。
まあ、キムチ鍋がお預けになって15分ほど経っているので、繕う必要なんてなかったんだれけども。
大家さんには一発で電話が繋がった。大変運がよろしかった。
「あのう、今おうちでなべを作っていたんですけど……」
「は?」
ちょっと気が動転していた私は、要らないところからバカみたいに説明をしてしまった。
私はこのとき、「人に説明するときはなるべく結論から言う党」として生きていることを恥じた。
でも、まあ、なるべくだからね。努力義務だからね。へへへ、大家さん、分かりづらくてごめんなさい。
「時系列ぐだぐだ説明党」となった私は、もう諦めて洗いざらい吐いた。キムチ鍋を作ってたら、換気扇のボタンが飛んだと。
ただ、故意過失ではないことを強調するしぶとさだけは残っていた。故意過失があるかないかでは、ずいぶんと違うからね。
そういうところだけは、ちゃっかりしていた。図太いね、カエルちゃん。
大家さんは電機屋さんをすぐ手配してくれたが、交換パーツが届くまでの2週間、換気扇は「強」のまま、ゴウゴウと回り続けた。
弊害はすぐに起こった。部屋が乾燥しまくるのだ。
加湿器が本気を出しても、湿度が1%もあがらない。そしてそのまま、加湿用の水が切れるほどだった。
私はこれまで、換気扇を気休めだと思っていたことを反省した。換気能力、あるんじゃん……。
パーツがふっ飛んで2週間後、電機屋さんが新しいパーツとやってきた。
電機屋さんはかなりのおじいちゃんだったが、手際よくガチャガチャバキバキやってくれた。
時折、チャリーンと言う金具が落ちる音がするが、それにツッコむ気力はなかった。
2週間爆音で回り続けた換気扇が止まれば、もう何でも良かった。ゴウゴウと言う音に、さすがにくたびれてしまっていたのだ。
その日、換気扇は止まった。
次の日、清々しい気持ちでリビングを闊歩していた私は、電機屋のおじいちゃんが落としたであろう金具を踏んだ。
リビング中に私の慟哭が響き渡った。
私はひとしきり苦しんだあと、金具を回収してしょぼくれた。幸い足はケガをしなかった。
それでもキムチ鍋は美味かった。
また、作ろうと思う。