独断 2022年2月
全ては「認知的不協和」である。「認知的不協和」とは有り体に言えば、「事実と自分の認識・希望とが異なっている場合に生ずる、心の不快感」である。そして人はその「不快感」を解消するために、事実を曲げて見るという行動にでる。
イソップの「酸っぱい葡萄」が、良い喩えである。枝に成っている美味しそうな葡萄を、狐が何度も工夫して取ろうとするが、どうしても取れない。結局「あの葡萄は酸っぱいんだ」と捨て台詞を吐いて去る。事実は甘くて美味しい葡萄なのに、それを「酸っぱい」と事実認識を曲げて、不快感を誤魔化す。
事実認識を曲げないと心が苦しくなる。老人性うつなどはその代表。人間は必ず死ぬのが事実。しかし死にたくないのが希望。歳をとるとどうしても目前に「死」が現れるが、生ずる不協和を誤魔化す手段がない。
若いうちは「まだまだ先だ」と「死ぬ」事実に触れないことで不協和が起こらないようにしている。それでも「お前も死ぬぞ、必ず死ぬぞ」と面前で言われると「縁起でもない」と怒り出すのではないか。怒らずとも不愉快であろう。事実を指摘されて怒るのは、認知的不協和から生じる不快感を昇華する方便である。
泣くのも、同じ。怒りも悲しみも実は全く同質のもので、認知の不協和をごまかすものである。その他の負の感情も全て同質。嘲り、妬み、、憎しみ、焦り、不安、悔しさ等々、人には様々な複雑な負の感情があるけれども、全て、と言って過言では無かろう、認知的不協和から生ずる「苦」の相転移したものだ。
そのメカニズムを知り「甘い葡萄」に触れてもそれを刹那に手放すことができれば、そこに苦はない。放下着!
22.1.16
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