独断 2022年1月

 私が小学生の時に、通っている小学校が創立百周年を迎えた。まだ十年も生きていない当時の自分にとって、百年前というのは果てしなく遠い過去のように思えた。しかし今、この年齢まであっと言う間に生きてしまうと、百年なんて大した時間ではないと思うようになってしまった。

 しかしまた最近、百年とは長い時間なのだと再認識するようになった。

 私は自分の家に電話(家庭用黒電話)が置かれた日の事を覚えている。それまではお商売の家、お金持ちの家以外には、電話はなかったのが、一般の家庭にも普及し出した頃である。電話を敷くにはすごくお金がかかった。電電債に加入権に、おそらく十万円単位の費用が必要だったはずである。当時と今とでは物価は3倍、初任給で6倍ぐらい異なるから、今の価値にして数十万円が初期費用としてかかっただろう。

 物心ついたときにはテレビは有ったが、白黒だった(カラーテレビは今の価値では百万円ほど)。クーラーもなかった。自動車も普及していなかったから大通り以外は道路は土だった。パソコンなんてのはずっと後で、「NECのパピコン♪(PC6000シリーズ)」などというコマーシャルが流れ始めたのは1980年代初頭である。

 年齢が離れると、その年齢分ずつ共有できない時が増える。生まれた時からスマホがありインターネットがありの現在の子供たちと私の原風景とは、だから絶対に共有できない。見る景色も聞く音楽も、全く異なる。言葉も違ってしまった。同じ時間を生きていながら、もう違う世界を生きているのだと感じると、おそらく百年なんてのは、途轍もなく長い時間なんだろうと思った。

21.12.13

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?