【第1回】女として抱かれたくてデリヘル嬢になった男子大学生の話~幼少期編~
どうも、MTFトランスジェンダーの、水島なぎさです。
MTFトランスジェンダーのMTFについてですが、Male To Female (英語で”男から女”)の略です。
生物学的には男性でも、精神的・身体的治療を経て、社会的に女性として生きている人のことを指します。
ちょっと小難しくて分かりにくい表現ですよね。
もっと簡単に言うと、私は元男性だったということです。
私は生物学的男性として生まれてきましたが、診療やホルモン治療や手術などを経て、女性として生活しているわけです。
その途中、男性の体のままでニューハーフのデリヘル嬢としてお仕事してた時期がありました。
現在は、肉体の魔改造が済んでおり、人工股間民族になっております(笑)
ちなみに、豊胸手術はしていませんが、ホルモン療法で大きくなったおっぱいがあります。
そんな私がこれまで送ってきた人生は、とても生きづらい人生でした。
何度自殺しようとしたか分かりません。
今回は、そんなMTFである私の幼少期のお話についてお話しします。
また、これから約50回くらいに分けて、私のこれまでの経歴について語っていこうと思います。100回くらいになるかもしれません。(どんだけあんねん!)
まず、幼少期から小学4年生の10歳ぐらいまでのお話をご紹介します。
少しおふざけも入ってますが、そこはご愛嬌ということで。
楽しんで読んでいただけたら幸いです。
※本記事には、著者本人の主観的な意見を含みます。事実と異なる場合がございますので予めご了承ください。
男だらけの家に生まれる
2000年、次男として生まれました。
生まれたときは、しっかりおちんちん、ついてます。
のちに、弟も生まれます。
上に兄、下に弟がいて、三兄弟でした。
家族の中で女は母だけでした。
あとは全員男。
次男だった私は、21年後におちんちん取って女になっちゃうんですけどね。
二人目の子どもが生まれる前、両親は女の子を熱望していたそうです。
育児グッズや赤ちゃん用の服なども女の子用で揃えていたと云います。
それなのに、生まれてきたのは男の子だった。
もったいないから、そのまま女の子用の服を着せたそうです。
「そのせいで、なぎさちゃんの潜在意識に女の部分があるのかもしれない」と、睾丸摘出手術の前に、両親に手術の許可をお願いした時に、初めて明かされました。
3歳くらいまでの時期は性別の意識が無いといいます。
そんな時期に女の子用の服を着せたら、心の性別が変わってしまうのでしょうか。
いいえ、そういうものではないと思います。
後天的にどう育ったかに関係なく、性自認は変わらないという研究結果があります。
気になる方は、出典の参考文献を読んでみてください。
つまり、私は両親に後天的に女の子っぽく育てられた時期が少しあったが、それは私の性自認を決定的に裏付けるものではないということです。
私が保育園、小学校に通う時期には、両親に普通に男として育てられていた記憶があります。
ぬいぐるみを寝かしつける遊びが好きだった5歳の時の話
自分が赤ちゃんだった時や、3歳ぐらいの時なんて記憶が全くなく、小学4年生ぐらいのときに自我が芽生えるまで、およそ記憶というものはほとんど無かったのですが、5歳の時の記憶の断片だけはあります。
今でもよく覚えているのは、ぬいぐるみを寝かしつける一人遊びが好きだったという思い出です。
くまのぷーさんのぬいぐるみがあって、それを押し入れの中で布団の上に寝かしつけて、ぷーさんに布団をかぶせ、お世話したり、ミルクをあげる真似をしたり、シーと指を口に当てて周りに静かにするようにお願いしたり…….。
といっても、周りには誰もおらず、1人で想像しながらごっこ遊びをするのが好きでした。
静かな遊びが好きな、繊細な子どもだったと思います。
その分、人一倍、傷つきやすい性格でした。
毒親・毒兄弟に苦しめられた幼少期の話
上の兄と下の弟と遊ぶことはありましたが、どちらも暴力的で、気性が荒いので、なるべく一緒に遊びたくありませんでした。一緒に遊ぶことがあっても、泣かされたり、おもちゃを奪われたり壊されたり、こちらが損することばかりでした。
今思えば、両親が子どもにかまってやる時間が少なすぎて、ストレスのせいで兄弟三人とも情緒不安定に育ってしまったのかなと思います。両親も、不安定な生活の中で、気持ちに余裕が無かったのでしょう。
まあ、私も、腹いせに兄弟に仕返ししてやったことがあります。そのせいで、恨まれているかもしれませんが、自分の人生にとっていらない人たちなので、どうでもいいです。
兄も弟も性格は最悪です。今でも全く連絡を取らないし、会ったとしても全く喋りたくありません。
ほぼほぼ、親の教育が悪かったのだと思います。
両親はかの有名な統一教会の熱心な信徒で、教会の非人道的な祝福式で強制的に結婚した国際カップルでした。とはいえ、両親ともそれを当然のこととして受け入れていたようです。
母はフィリピン人で、父は日本人。
父は仕事が忙しすぎて全く家に帰る暇がなく、家庭のことは母に任せていたつもりでした。
しかし、母は三人兄弟の世話がしきれずいつも手一杯。
日本に頼れる親戚も知人もなく、孤立していました。
日本語でコミュニケーションを取るのも難しいことは容易に想像できます。
やんちゃな男三兄弟。
言うことを聞かない子どもたちを調理器具で叩いて虐待するようになりました。
日本人の母なら、子どものしつけもしっかりすると思うのですが、フィリピン人の母は日本の文化を知らないため、フィリピン式のほったらかしの子育てをしていました。
基本的にほったらかしで、母の言うことを聞けない時は暴力を振るう。
言葉が通じにくかったので、言い聞かせるより暴力で言うことを聞かせるしかありませんでした。
また、私たち兄弟が話す言葉もおかしくなっていました。
日本語と英語とタガログ語が混じって、家族以外ではとても通じそうにない謎の言語が誕生していました。
そのせいで、他の子どもたちと遊ぶとき、しゃべり方が変だといじられ、家族以外の人の前で、兄弟で喋るとき、変な喋り方が気になってしまい、人前で兄弟同士で会話ができなくなってしまったのです。
日本語のみで、兄弟で普通に会話しようとすると、違和感しかありませんでした。
家族と喋るのに、日本語を使うと、まるで他人と喋っているような、よそよそしい感じがしてしまうのです。
大人になった今でも、日本語だけで家族とコミュニケーションをすることに違和感を感じてしまいます。
かといって、英語と日本語を混ぜて喋るかといえば、、、それもできません。
食生活もフィリピン式でした。肉や油が多く、消化に負担がかかるため、他の日本人の子どもに比べて眠くなりやすく、胃腸の調子も悪くなりやすいため、日本式の生活になかなか馴染みにくい一面があります。
具体的に一例を挙げると、フィリピン式の食事を摂るとお腹にガスが溜まりやすいため、集団で行動しているときに、我慢していてもおならが出てしまう。
しかも、そのおならが、肉食由来のくっさ~いおならなので、たちまち周りの人達に嫌われてしまいます。
また、私たち兄弟が話す言葉もおかしくなっていました。
日本語と英語とタガログ語が混じって、家族以外ではとても通じそうにない謎の言語が誕生していました。
そのせいで、他の子どもたちと遊ぶとき、しゃべり方が変だといじられ、家族以外の人の前で、兄弟で喋るとき、変な喋り方が気になってしまい、人前で兄弟同士で会話ができなくなってしまったのです。
日本語のみで、兄弟で普通に会話しようとすると、違和感しかありませんでした。
家族と喋るのに、日本語を使うと、まるで他人と喋っているような、よそよそしい感じがしてしまうのです。
大人になった今でも、日本語だけで家族とコミュニケーションをすることに違和感を感じてしまいます。
かといって、英語と日本語を混ぜて喋るかといえば、、、それもできませんでした。
さて、兄弟でケンカしようが、物を壊そうが、人様に迷惑をかけようが、母はいつも知らんぷりでした。というか、フィリピンの価値基準的に、そこまで悪いことじゃなかったのかもしれません。
当の母は、ひたすら携帯端末をずっといじってて、いつも寝転がっていて、facebookに夢中でした。
横着して食事を作らず、facebookばかりして、父親は夜遅くまで帰ってこないから、幼少期~小学生~中学生の時まで、食べる物がなくて困った日が度々ありました。
その時に、私が自分で料理していたのですが、おいしいおかずは兄弟に独り占めされてすぐに無くなり、私の取り分が無くなったりしました。
兄弟に食べられないように、わざとまずく料理を作ったりすると、文句を言われて、イライラされて八つ当たりされて、散々でした........
何様のつもりだよ、って感じですよね。分け合えばいいのに、何でも独り占めしたがる上の兄と下の弟との間で喧嘩が多発しました。
兄弟喧嘩の仲裁などしてくれません。
喧嘩をやめなさいと言うだけで、根本的な問題に向き合ってくれませんでした。
だから、いつまで経っても兄弟で奪い合いが絶えない。
食べ物を分かち合ったり、他の人のことを考えるということができていませんでした。
そんな幼少期の家庭環境は、とても居心地が悪く、安心できませんでした。
油断したら、兄や弟に殴られる。暴言を吐かれる。大事なものを盗られる。両親は全然守ってくれない。まさに地獄でした。
父は父で、家庭内が荒れているのを全て母のせいにして、やる事と言えば、家で寝るだけ。家事などは一切やらなかった。というか、できなかったそうです。
男は外で稼いで、女は家で子どもたちの世話をする。
昭和式の考え方ですよね。
父は昭和生まれなので仕方ないですが。
今思えば、ブラック企業という言葉がまだ無い時代で、父は家族を養うために身を粉にして薄給で残業しまくり、深夜2時に帰宅して朝6時に出社する毎日を送っていて、家では寝ることしかできなかったんだと思います。
でも、その家族愛が、フィリピン人の母には伝わらなかった。
なぜなら、フィリピンでは、家族との時間を取れなくなるくらい働くのは家族を愛していないと見なされるからです。
家族よりも、仕事を優先するのかと。
母は父のことを最低な男だと非難していました。
父が深夜に帰宅するときに包丁を突きつけて家に入れさせないようにしたこともあるそうです。
父と母はよく大声で口喧嘩をしていました。
幼い子ども心に、それを見聞きしていてとても不安になりました。幼少期の両親の喧嘩は、子どもの脳の発達に悪影響を及ぼすそうですね。
文化の違いからすれ違っている両親のストレスが、子どもに理不尽に向かうこともありました。
統一教会の毒
子どもを叱る時に、統一教会式のキョンベー(真の父母様の祭壇の前でひれ伏す行為)を何百回もさせられることがよくありました。
私も、悪さをして反省のキョンベーを何百回もさせられたことがあります。
子どもを叱る行為としては、度を越していたと思います。
あと、兄や弟が、悪さをしたときに、祭壇の前で縄で縛られて、身動きが取れない状態で放置されることもありました。
悪魔がとりついてるから、真の父母様の力で取り除こうとしたわけです。
何が真の父母様だ!!!
そんなのあるわけないだろ!!!!!!!(爆)
ただ、しつけがなってないだけじゃー!!!!!!
親の顔が見てみたいわーーーーっ!!!!!!!!!!!
幼い頃から統一教会の日曜礼拝に強制参加させられてましたから、統一教会に関するものはトラウマです。教会が大嫌いになりました。
教会では「愛のある家庭を作りましょう」とか「家庭にこそ天国がある」と教えられましたが、私の家庭はとても天国と言えたものではありませんでした。たぶん、幸せを感じられたのは当時の無責任な父だけじゃないでしょうか。
また、父は統一教会に先祖解怨のための献金をたくさんしていました。
そのせいでお金があまり残りませんでした。
母は結婚してから、何度も離婚したかったと云います。
父に、日本の悪口をたくさん言ったり、子どもたちに日本の悪口ばかり言うこともありました。
じゃあ何で結婚したんだよ!って話ですが(笑)
フィリピンに居る母の親族は、日本人のことを良く思っていなかったそうです。第二次世界大戦の時のひどい話が、家族の中で語り継がれていたらしいのです。
何でも、お腹を空かせた日本兵が母の曾祖母のところにやってきて、まだ妊娠中だった曾祖母を銃剣で殺そうとしたそうです。家族が必死に命乞いしながら、金品や食べ物をある分だけ渡すと、日本兵は曾祖母を殺さずに去っていったそうです。
それだけでなく、日本兵による強姦・殺人・略奪事件が横行していたそうな。
もちろん、母もその話の影響を受けていて、統一教会も日本を批判していますから、思想が反日寄りになるのかもしれませんね。
ちょっと話が逸れすぎました。
父も母も、ろくに家庭の経営ができていませんでした。
兄はいつも不満や愚痴を祖母に言っていたと云います。
きっと、私が生まれる前から、兄はあまり構ってもらえなかったのでしょう。
忙しすぎる父と、ネグレクトをする母。
子どもに使うお金も時間も労力もないなら、三人も子ども産むなよ!!!って話ですが……..。
統〇教会は、教会の伝道師として2世をどんどん増やせと喧伝していたので、両親もその波に乗っかったのだと思います。
今はバブルで景気がいいから後先考えず子どもをたくさん作ればいい!!!
神の真実の愛で結ばれた二人なら大丈夫だ!!!
神の子たくさん産めよ増やせよ!!!!
アボジ!!!オモニム!!!マンセーーーー!!!
子どものために、たくさん働き、運が良くなるように教会に時間とお金をつぎ込みました。
その結果がこれです。
家庭を顧みない父と児童虐待をする母。
両親への不満を私に暴力でぶつけてくるクソな兄。
いつもシクシクめそめそしているヨワヨワ次男。
わがまま放題で何でも独り占めしないと気が済まないクソな弟。
家庭は崩壊していました。
教会に時間を使うより、子どもたちと向き合ってもっと遊んでほしかった。
仕事しまくって疲弊するより、ほどほどにして家族に時間を使ってほしかったです。
無責任にフィリピン人と結婚するくらいなら、日本人の普通のお母さんと結婚してほしかったです。
核家族で3人も子どもを産んで、お金と時間が足りなくなるくらいなら、1人だけにしといてほしかったです。
兄弟3人で両親の限られた愛のパイを奪い合わないといけなくなって、お互いを殺したくなるほど憎んで、とても不幸でした。
私は、兄弟と平和に仲良くしたかったけれど、それはとても叶いませんでした。
私なんて生まれてこなければよかった。
生まれながらにしてハードモードです。
いい加減にしてください。
授乳に憧れた小学2年生の時の話
小学2年生の夏休み、フィリピンにある母の生家にいたときのことです。
とても暑いので、子どもたちや近所の大人、犬、猫なども一緒にお昼寝して昼の熱い時間帯を過ごしました。
そのお昼寝した時に見た夢を、今でもよく覚えています。
竹でできた長椅子の上に、私が赤ちゃんを抱きながら座っていて、自分の服をまくり、たわわな胸が露出し、赤ちゃんに授乳をしました。
赤ちゃんにちゅうちゅうと乳首を吸われている間、私はとても幸せな気分で満たされていました。
気が付くと、現実に引き戻されて、私は他の子どもたちと一緒にお昼寝していて、汗がじっとりと体にまとわり付いていました。
でも、その夢を見ていたときだけは、とても自分らしいことをしていたなあと感じたのでした。
髪の毛を長く伸ばさないと落ち着かなくなった小学4年生の時の話
小学1~3年生までは、親の言うままに、ボウズ頭にしていました。
髪が少し伸びたら短く刈ることを繰り返していたんですが、髪が短いと何故か違和感がありました。
なんで髪の毛を短くしないといけないんだろう。
なんでクラスの女の子は髪の毛が長いのに、髪の毛が長い男子はいないんだろう。
ボクは髪の毛を伸ばしてみたいのに、どうしてダメなんだろう。
ああ~、髪の毛が欲しいな~૮ • ·̫ •̥ ა
そして小学4年生の時、髪の毛を切りたくないと言うようになりました。
たぶん、そのとき読んでいた小説やハマっていたゲームの影響で、長髪のかわいいキャラに憧れていたのもあると思います。
ニンテンドーDSでハマっていた『ロックマンゼクス』のヴァンとエールの長い金髪に憧れてました。
あと、学校の図書館でよく本を読んでいて、その中でも『闘竜伝』という小説に登場するナガラというキャラが好きでした。
女の子のような綺麗な見た目をしているけど、戦いはものすごく強い、みたいな。
小学生の時、なぜか分かりませんが異常に興味をそそられましたね。
きっと、自分のなりたい姿がそこにあったからかもしれません。
周りの人達に「早く髪を切れよー」と言われても「もうすぐで切るから」と切る切る詐欺をして時間を稼ぎ、肩に付くぐらいまで髪を伸ばしたのでした。
鏡で肩に付いた髪の毛を見たとき、とても嬉しくなりました。
ああ、なんてかわいいんだろう。うふふ。
自分の髪、かわいいなー。
自分に惚れてしまいそう♡
目がクリクリで顔が整っていた?のもあって、髪が伸びると普通にかわいい美少年だったかもしれません。
髪が長いまま中学生になるまで過ごしました。
髪が長いとなぜか落ち着きました。
長い髪の毛が、自分の恥ずかしいルーツやコンプレックスを覆い隠してくれるような気がして。
そのときは、女の子に間違われることが多くなりました。
教会の行事に家族で参加したとき、他の家庭のお母さんから「あれ?お姉ちゃん?妹?女の子いたんですねー」と言われたりしました。
そのときの服装は上下ジャージだったので、性別が分かりにくかったのでしょう。
女の子に間違われる私を、家族はあまりよく思っていませんでしたが、私はむしろ間違われるのがなんだか嬉しかったのを覚えています。
当時、クラスメイトの女の子に「あんたって目が大きくてクリクリよね。羨ましいわ」と皮肉まじりに言われたことがありました。
フィリピンハーフなので、二重と涙袋の主張が強すぎて、目が大きく見えてしまうのでした。
しかし、当時の私にとってはコンプレックスでした。大きすぎる目のせいで、何かと目立ってしまい、いじめっ子や意地悪な先生の格好のターゲットにされてしまうのです。
実際、男子にいじめられたり、急にはぶられたり、遊びに誘ってもらえなくなることが多かったです。
見た目だけでなく、性格など、他の原因もあるとは思いますが…….(苦笑)
私は、普通の日本人の子どもが羨ましくてたまりませんでした。普通の家庭の子なら、見た目は普通だからそんなに目立つこともないし、名前も普通だから出席簿で目立つこともない。変な宗教の話で友達が離れることもない。生活様式の違いですれ違うこともない。なんで自分だけこんなに人と違うんだろう。
そんな風に考えていた時期がありました。
また、夏休みにフィリピンにも行ったのですが、フィリピンで仲良くなった男の子たちが私の目の前でじゃれ合って、恋人ごっこをしていたことがありました。
他の子が「あいつらはデキてるんだよ。バクラ(タガログ語でオカマみたいな意味)だから」と言いました。
フィリピンでは、男の子同士がいちゃついたり、女の子みたいにお化粧をしたり、スカートを履いたり、女装したりしても「バクラだから」で済まされます。誰も気にしませんし、よけいな詮索をされることもありません。
なんていい環境なんだろうと思いました。
同時に、彼らが羨ましく感じました。
私も、好きな男の子とあんな風に堂々とイチャイチャしたい。
かわいい服を着たり、髪の毛を伸ばして結んだりしたい。
もし私が、日本ではなくフィリピンで育っていたとしたら、もう少し生きやすかったのでしょうか。
いいえ、きっとフィリピンで過ごしたとしても、生きていく上で苦悩することは大なり小なりあるでしょうね。
【まとめ】生まれたときからハードモード
ここまで読んでいただきありがとうございます。
毒親、毒兄弟、新興宗教、歴史問題、反日感情、ネグレクト、虐待、フィリピンハーフの生きづらさなど、生まれた時から生きづらい要素がてんこもりでした。
ゲームをするならハードモードから選択したいけど…….!
リアル人生ゲームでこのハードモードはちょっときついんじゃないの神様…….!!!
障害があって体が不自由じゃないだけマシかもしれませんがね。
性別への違和感に関しては、10歳ごろまではまだ、何となくの段階で、そこまで強烈な違和感を感じたわけではありませんでした。
性別違和のことについて書きたかったのに、毒親問題がメインの記事みたいになってしまいました。
次回は、小学5年生~小学6年生の、思春期のはじめごろの性別違和に関するエピソードをご紹介したいと思います。
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水島なぎさ