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寺山修司とトランプとサブカル(ゲスト:トークラさん)
「寺山修司とアングラの未来」
「100回なんてすごいね」そう言われて、私はようやく自分のポッドキャストが大台を迎えたことに気づいた。更新が滞り気味だったこともあり、特別な感慨が湧くわけでもなかったが、悪い気がしない。
今回のゲストはトークラさん。アングラ文化を語るにはこれ以上の適任者はいないだろう。
彼との会話は、まるで川の流れのようにどこまでも続いた。寺山修司の魅力から始まり、アングラ文化の再評価、現代社会が抱える閉塞感の正体、そしてSNS時代における表現の困難さまで。どれも結論を求める話ではなかったが、だからこそ面白い。
寺山修司展に足を運んだという彼は、展示されていた手紙の話を熱っぽく語った。イラストや遊び心が散りばめられたその手紙は、送り手の意図がそのまま形となった作品だったという。「将来高値がつくから」と冗談めかして送りつけられた手紙に、私たちは彼の破天荒なユーモアを感じた。
「アングラに惹かれる若者と会話した」とトークラさんが話す。閉塞感を抱えた時代には、主流から外れた表現が魅力的に映るのかもしれない。ポリコレの息苦しさ、SNSであふれる即時的な言葉たち。これらに反発するかのように、寺山修司のような“余白”のある表現が、再び注目を集めているのだろう。
だが、私たちは同時に気づいている。寺山修司のような存在は、もう出てこないのかもしれない、と。メインカルチャーが崩壊した現代においては、かつてのような明確な“対抗軸”が存在しない。紅白歌合戦やレコード大賞といった象徴に反発することで生まれるエネルギーが、どこにも行き場を持たない時代。アングラと呼ばれるものすら、どこか中途半端になっている。
「寺山修司が現代にいたら、YouTubeやSNSを使い倒していたんじゃないかな」と私は思った。彼はきっと、既存のフォーマットを壊しながら、新たな場を作っていただろう。視聴者に問いかけ、揺さぶり、また次の問いを投げかける。そんな姿を想像すると、妙にリアルに感じられるから不思議だ。
会話は最後に、哲学カフェの話題へと移った。トークラさんが主催するその場は、まるで寺山修司の遺した「路上演劇」の再解釈のように思えた。政治や芸術を語り合い、意見を交換する。時代遅れかもしれないが、だからこそ貴重な場だ。
「寺山修司は僕たちのすぐそばにいるのかもしれないね」そんな言葉で締めくくられた今回の対談。終わらない会話と、どこかに残る表現への渇望。それらすべてが、現代のアングラを象徴しているようだった。
また半年後、彼をゲストに招いたときには、何が見えているだろうか。アングラの灯火はまだ消えていないと信じたい。