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ままならない日常でも、そろそろ自分を大切にしたい
月曜日の23時過ぎ。
私は化粧水の入ったガラス瓶を盛大に割った。
開封して2週間も経っていない、そこそこお高めだった代物。呆気なく私の手から滑り落ち、その中身は洗面所の排水溝に跡形もなく吸い込まれた。
残ったのは底の欠けた瓶と、見事に砕け散ったガラス片、そして何より圧倒的な疲労感。
まだ月曜日なのにな。
夜な夜な破片をビニール袋にまとめ、寝巻きのままゴミ集積所に行き、さっさと捨てた。
明日が燃えないゴミの日で良かった。
この事態に至るまでには伏線がある。
仕事の繁忙期に終わりが見えつつある今、AFPの勉強に本腰を入れたいと、そう思っていた。
単元ごとの確認テストは全てやり終え、残すは提案書(架空のクライアントのファイナンシャル・プラン)の作成のみ。しかし、これがAFP取得に向けた最大のポイントである上に、内容は教育費から住宅ローン、退職後の資金計画や投資に至るまで、FP業務全般に及ぶ。中々に重たい。
まとまった勉強時間を取りたい。
ではいつ休めるか。再来週は業務が立て込んでいるが、来週はどうだろうか。
手帳を開くと、ドンピシャで休めそうな日があった。
よし。心は決まった。
ついでに、自宅の近くには気になっている飲食店が数件ある。
子連れではハードルが高くととも、勉強の休憩がてら一人でならふらりとランチタイムに行けそうだ。
メニュー表を見ながら、インスタグラムを眺めながら、あれこれ妄想が止まらなかった。
しかし、そんな時間も束の間、久しぶりに保育園からのお迎えコールを受けた。
息子が保育園で嘔吐したとのこと。
慌てて休暇を申請した。自分のためではなく、息子のための看護休暇を。
私の貴重な休暇は、3食の食事作り、医療機関の予約と受診、昼夜の寝かしつけ、それに自宅療養するしかない息子のレゴ遊びの付き添い…等々、当然ながら家事と育児に費やされた。自分のことは二の次。勿論、AFPの提案書のことなど何一つ考えることができなかった。
幸い、息子は自宅では一度も嘔吐しなかった。下痢症状もなく、診察した医師によればお腹の調子も悪くないとのこと。
翌日からは平常通り保育園に登園し、私も平常通り出勤した。
大事に至らなくて良かった。安堵の気持ちは当然ある。
けれど、心の奥底ではがっかりした気持ちが拭えなかった。
あのガラス瓶はわざと割ったわけではない。一方で、ただうっかり手を滑らせただけでも、多分ない。
子育て中の身。物事が自分の思い通りにならないことは分かりきっているのに、それでも割り切れないもどかしさや苛立ち。不可抗力とはいえ、自分の楽しみが他者からいとも簡単に奪われる小さな失望感。
その心の揺れが、ふとした瞬間に現れてしまった気がしてならないのだ。
今の化粧水に変えて1年半以上の間、瓶を割ったことなど一度たりともなかったのだから。
noteを始めて、自己紹介の次に書いた記事が、自分の身に降りかかった全治3ヶ月の低温やけどの話だった。
実はこの低温やけどを発症することになる次の日から、私は久しぶりに実家に帰省する予定だった。
しかしその予定は直前に無くなった。
実母が帯状疱疹を発症したからだ。
荷造りなどの準備は全て済んでいた。
更に言うと、毎日が赤ちゃんとのワンオペ育児一色だったこの時期の私は、実家に帰れることを心の拠り所にして日々をどうにか生きていた。
実は、育休中における細部の記憶はあまりなかったりする。
覚えているのは、息子はあまり寝ない赤ちゃんだったということ。やっとの思いで寝かしつけても、1時間も経たずに目を覚ます。しかも、大体は号泣からの起床で、目覚めは最悪。次の授乳のタイミングまで、あれやこれやと目の前の息子のために心を砕く。
そんな日々の中では自分の時間など、細切れでしかなかった。
赤ちゃんは寝るものだと当然のように思い込んでいたからこそ、現実との乖離に私の心が追いつかなかった。
もう疲れた、実家で一息つきたい、そう思っていた。
それだけに帰省が叶わないと知った時は、一瞬思考が止まった。
なるべくピンと張るように努めていたはずの糸が、突風に吹かれて呆気なく飛ばされていくような、そんな気分だった。
実母を責めることはできない。仕方のないことだ。
でも、ぶつける当てのないこの黒い感情をどう発散して処理すれば良いのか、ワンオペ育児で疲弊し切った当時の私にはわからなかった。
私は落胆を引き摺りながら布団に潜り込み、そのまま就寝した。布団の中の湯たんぽと、それを覆うカバーが今にも外れかかっていることに気づかないまま。
後の経過はここでは割愛するが、私は低温やけどの処置のまずさから蜂窩織炎を発症し、一時は皮膚を一部欠損するほどの怪我を負った。残りの育休期間を治療に費やした私は、物理的に実家に帰れなくなってしまったのだった。
我が子のことは勿論かわいいと思う。それでも。
自らの全ての時間とお金と手間を無条件に子どもに差し出せる、私はそんなタイプではきっとない。
ワンオペ育児に疲弊した末、ちょっとした引き金で判断力を失い、低温やけどに至ったり。
終わりかけた繁忙期の合間、計画通りに休暇が取れないことに落胆し、うっかりガラス瓶を割ったり。
傍から見れば何ともなくとも、どんなに平然を装っても、心に積もったままのどうしようもない割り切れなさを見て見ぬふりをし続けていれば、いつか私はとんでもない失敗をやらかす。
散々思い知ったはずではなかったのか。
目の前で割れたガラス瓶を前に、ここから学べる教訓のようなものがあるのか、考える。
少なくともこうなる前に、周囲や自分に悪い影響が出る前に、自分で自分を満たしてやらなければならない。
美味しいものを食べるも良し。
時間を忘れてエンタメに触れるも良し。
お前は結局自分が一番大事なのかと、そう思われる人もいるかもしれない。けれど、自分が自分のことを大切にしてあげられなければ、きっと他者のことを幸せにはできない。
心の中でままならない思いを抱えながら、常に穏やかで優しい母でいられる、そんな大きな器が今の私にはないのだから。
マツダミヒロ氏が提唱した理論の中に、「シャンパンタワーの法則」というものがある。
(中略)小学校、中学校に行って、お母さんに質問をさせていただくこともあります。お母さんは2段目から、つまり「家族のため、子どものため、旦那のために時間と労力を使っている」という方が多いです。
そうすると、2段目が溢れ、3段目と4段目もいっぱいになって、だいぶいっぱいになるんですが、まだ全体が満たされることにはなりません。全体を完成させるためには、一番上のグラス、つまり、自分自身を満たさなくてはいけないんです。自分自身を満たしていって、そのあふれ出たエネルギーで2段目を満たし、3段目、4段目と満たしていくと、全体を満たすことに繋がっていくんです。
まずは、人のためではなく、自分を満たすことが必要です。これが、「シャンパンタワーの法則」です。
思い通りにいかない、ままならない日常。
でも、そろそろ自分を大切にできればいい。いや、大切にしよう。そう思っている。