テープとシャワーとご時世と
なんだかいつもと違う。
いったい何が違うんだろう?
レジに透明カーテンがかかっているのは、このご時世だから当たり前。
手際よくレジを打つ女性は渡辺さんで、この時間帯に彼女がいるのはいつも通り。
毎回「何のスポーツをなさってるんですか?」と聞きたくなる、彼女の灼けて引き締まった腕も、いつも通り。
それでも違うのだ。何かが。
月に2~3回のペースで何年も足を運んできたベーカリーに、久しぶりに立ち寄った。
期間が空いたのは、もちろん、あのウィルスのせい。
このベーカリーは、家から車で7分のショッピングモールの一画にある。
「不要不急」という何とも曖昧な境界線によって、私とショッピングモールは隔てられ、ついでに愛するパンとの距離も遠くなった。
軽くトーストしてバターを塗ったドゥリーブルも、カリカリに焼いたベーコンエピも、私にとってはどちらかと言えば「要急」だけれど。
かつては陳列台のトレイのうえで輝きを放っていた焼きたての惣菜パンは、すべてビニール袋で個包装されていたし、2つのレジの前には透明なカーテンが吊るされている。
レジへ至る順路には、キープ・ディスタンスを呼びかける足あとマークが貼られていて、これらはもちろん想定の範囲内だ。
私は前日から遅い夏休みを取っていた。
というのも、週末から自宅の水回りリフォームが始まっていたからだ。
この日は工事4日目で、前日に組み立てたバスルームのコーキングが乾いたところだった。
早めにこの日の工事を終えた担当者から、バスルームで使い方のレクチャーを受ける。
その最後に、彼はこう言った。
「このシャワーですが、水栓をひねって止めた後に、シャワーヘッドに残った水がポタポタと落ちる仕様になっているんです。ですから、よくお問い合わせを頂くんですが、故障ではありませんので心配なさらないでくださいね。故障ではありませんので」
たしかに、止水後のポタポタを見たら「水栓に不具合があるのでは」と不安になるかもしれない。
でも、説明の最後に丁寧に「故障じゃない」と2度も繰り返さなければならなかった理由は、きっと他にあるはずだ。
右耳で説明を聞きながら、左目が理由を探す。
左上の妄想劇場で、アレがチカチカ光った。
私も職場での電話対応でときどき遭遇する、アレだ。
私はマスクの目をにっこり笑わせて、「先に教えてくださって、ありがとう」と言った。
よく訓練された働く手元は美しい。
渡辺さんの無駄のない流れるような動きを見ているうちに、違和感の原因に気が付いた。
私が変だと感じたのは、個包装されたパンを彼女がひとつひとつひっくり返して袋の口をテープで留める、その行為だった。
以前は、パンをひとつずつトングでビニール袋に入れて袋の口をねじり、店の袋にそっと詰めていたはず。テープで留めてはいなかった。
ひとつひとつテープで留めれば、うっかり手荷物を振り回しても袋からパンが転がり出ることはないけれど、冷めきっていないパンは蒸気がこもってベタベタになってしまうだろうし、第一、レジの手間がひとつ増えて、そのぶん時間がかかり、行列も長くなる。
テープにかかるコストはわずかでも、時間的なコストは馬鹿にはできないだろう。
それでも、テープで留めるのはなぜだろう?
レジ袋有料化で、マイバッグ客が増えたことと関係があるのだろうか?
私は思わず、ひそやかに声をかけた。
「いつからテープで留めるようになったんですか? 前も留めてましたっけ?」
「いえいえ。この2週間ほどです」
「どなたか・・・あったんですね?」
彼女は眉を上げて曖昧な笑顔を作ると、つぶやいた。
「ご時世ですよね・・・」
またしても、妄想劇場がチカチカした。
ここでも私はにっこり笑って「数が多いから手間かかって大変ですよね。ありがとう」と言い、こうばしい香りが立ちのぼるマイバッグを受け取った。
「こっちはちゃんと水を止めているのに、なんで水がポタポタこぼれるんだよ! 不良品をよこしやがって!」
「普通に持って帰ってきただけなのに、ビニールからパンが出ちゃって、マイバッグに油が浸みちゃったんだけど! テープで留めないから、出ちゃうんじゃないの? パンも不衛生だし、交換してもらえる?」
もちろん、妄想劇場でのセリフなので、こんなことがあったかどうかは定かではないけれど。
しょっぱなから戦闘モードでかかってくる、お客様からの「お問い合わせ」という有難いご意見は、商品が目に見えるものではない私の職場でも、実はよくあることだ。
私の経験上、問い合わせの態度が高圧的であればあるほど、そのお客様は手元の説明書等の確認をしていなかったり、こちらの説明を聞き流している事が多い。
それでも、サービスや商品への対価を支払っているのはお客様だから、納得して頂けるよう言葉を選んだ丁重な対応が必要となり、結果として担当者の精神が少しずつ蝕まれていく。
そのようなお客様への対応に苦慮しているのは、どこの企業や機関も同じなのかもしれない。
暑いのにマスクは外せない、旅にも大っぴらには出にくい、居酒屋でチョイと一杯!も、カラオケで2次会も躊躇するし、花粉でうっかりクシャミをすれば周りの目が気になる。
いつまで続くか判らない閉塞感のなか、ぶつける相手のないいらだちを覚える瞬間は、たしかに増えている。
でも、ほんのちょっと。
考えかた次第だと思うのだ。
「パンのビニール袋の口が開いているから、気を付けて持って帰ろう」
それでもパンが袋から出ちゃったら、「あぁ私、ドジだったなぁ。まぁ、いっか!」
それで良くない?って、私は思う。
マイバックは洗えばいいし、マイバックの内側や他の商品と触れたパンの表面はトースターで加熱殺菌すればいい。
わざわざ、そのいらだちを言葉の刃に換えて、誰かを刺す必要なんてないし、刺したところでいい気分になんかなれないもの。
いつの間に、こんな不寛容な世の中になってしまったんだろう。
人を許せないと、そんな自分自身のこともいつか許せなくなるのに。
そんなことを考えていたら、ふと、中高生の頃に学校の毎朝の礼拝で読んだ聖書の言葉を思い出した。
私はクリスチャンではないけれど、長い歳月を経た今でも、すらすら暗唱できる。
宗教くさいと敬遠しないで、この短い言葉を読んでみてほしい。
この手紙を書いたらしいキリストの使徒パウロさんは、けっこう大切なことを言っていると私は思う。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
(コリント人への手紙 第13章)
そして、もうひとつ。
これは中学校の入学式で出会った言葉。
愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。
(コロサイ人への手紙 第3章)
眼差しに寛容を、言葉に愛を。
テープとシャワーと「ご時世」という言葉に、あらためて「寛容」でありたいと祈った、ある1日の心の記録。