出会うとき、離れるとき
お別れする時期が来た。
ありがとう。ありがとう。もう、ここへは来ない。
わたしが大切にしたいものは、きっとここにはないから。
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初めて電話をかけたとき、とても勇気がいったことを覚えている。7~8年前だろうか、何度目かの美容院難民になっていた頃だ。自宅にほど近いサロンは4階建てのビルの1階にあって、天井からドライフラワーの花束がいくつか下がっている。店のホームページを見ると、そのいわれが書いてあった。数ヶ月前のオープン時に祝花を頂いて、その気持ちを取っておきたくてドライフラワーにしたとのこと。
「お客様にできるだけ快適に過ごしていただきたいので、同時のご予約は2名までにさせていただいています。スタッフも僕とカラーリストの彼だけなので、じっくりお客様と向き合う時間を大切にしたくて」
出会った、と思った。
いつも予約時間から待たされることはなかったけれど、切れ目なく前後にお客さんはいる。とりわけカット技術が高いというわけではないけれど、カウンセリングに時間をかけ、仕上げも丁寧。加えて、時間管理もできるということなんだろう。カウンセリングで話したことを彼はよく覚えていて、ずいぶん経ってから驚かされることもよくあった。
彼は物腰がやわらかく、ことばを丁寧に選んで話す。
「お店のためにはSNSで発信したほうがいいんでしょうけど、ことばを選びすぎて書けなくなってしまうんですよね」
その気持ち、痛いほどわかる。
モデル体型で、綾野剛と冨永愛を足して2で割った中性的な感じ。肩先まで伸ばした髪にやわらかくパーマをかけ、いつもにこにこ笑っている。シンプルなのにちょっと変わったデザインを選ぶファッションセンスも含めて、雰囲気がある。
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いつの間にかスタッフが増えたなと思ったら、2店目をオープンするのだと彼は言った。これまで育てた店を若いスタッフにまかせ、そこから車で15分ほどの場所に彼は新たな店を構えて、わたしもそこへ通うようになった。
喉に小骨が刺さったような違和感を感じ始めたのは、いつ頃だろう。
おとちゃんがシャンプー後の濡れ髪のままずいぶん長く放置されて、その間に後から来た次のお客さんをカットし始めて、寒くてつらかったと言ったのがその始まりだった。やがて彼のカットはすこしずつ雑になって、帰宅してから自分で切り直すことも増えた。
決定的だったのは、カウンセリングで話した「すこし伸ばすから、厚めに」との要望を聞き漏らして、いつも通りにベリーベリーショートに刈り上げたことだった。
聴いてない、と思った。話を聴いていない。どうでもいい雑談はいいけど、いちばん大切なところをすっ飛ばして、思いこみで「うたさんはこれでしょ?」で刈りこんでしまう。わたしは芝生じゃない。いつも9mmでいいとは限らない。
切りすぎたって、すぐ髪は伸びる。でも、最初に出会ったときに彼が語った「大切にしたいこと」は、きっともうこの店にはない。
何も触れずに会計を済ませ、笑顔で店を後にした。
ありがとう。ありがとう。もうここへは来ない。
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2店舗を経営するというのは、遠くから想像しただけでもきっと大変なことだろう。スタッフを養いつつ、借入金の返済もあるかもしれない。稼ぐって、精神力も体力も知力も必要だしね。彼が変わったんじゃない。きっと、わたしが思い込んでいただけだ。
特別カットが上手くなくたって、お客さんに丁寧に感覚を尋ねながら一生懸命切るところが彼の良さだと、わたしは勝手に決めつけていたのかもしれない。髪を洗って、切って、乾かして、仕上げて、送りだす。たったそれだけの時間しか共有したことはなかったのに。
勝手に期待して、勝手に裏切られたような気持ちになる。相手にそれほど失礼なことはないよね。
出会うとき、離れるとき。
さして重要でもない人生の細道の交差点だけれど、この歳になっても、まだまだ教わることだらけだ。
彼にこれから出会うお客さんが心地良い時間を過ごせるよう祈りながら、わたしは昨夜、合わせ鏡で髪を切った。
どうしよう。
また、美容院難民になっちゃったよ。