新しい毎日《前編》 #写真から創る
アパートの階段を転げるように駆けおりたときには、あの人はずいぶんと先にいた。昨夜から降り続いた雪が舗道を白く染めて、彼は寒そうに肩を丸めて歩いている。その姿を見た瞬間、我に返る。
これでいい。
これでいいと思った。
つっかけた彼のサンダルから雪が浸みて、私は空を見上げる。
灰色の空から、ちらちらと雪が舞い降りてくる。
泣かない。泣かない。大人だもの。
私は大丈夫だ。今日が日曜でよかった。
歯ブラシは捨てよう。置いていった雑誌も。でも、ふたりで買ったお茶碗は? マグカップは? 彼が戻ってくるまでに、荷物をまとめておかなくては。洋服に写真集にCD・・・いつの間にか“ふたり”の物が増えていたことに、今さら気付く。
誕生日にプレゼントした旅行カバンに、畳んだ服を機械的に詰めていく。心を1mmでも動かせば、泣いてしまいそうだから。
あ、これ、初めてデートした時に買ったTシャツ。「もう首がよれてきたからパジャマにする」って言って、私がおなかをめくると「伸びちゃうだろ」って笑ってたな。首だって伸びてるのに。
Tシャツに顔をうずめて、すん・・・と息を吸い込んだ。ホワイトフローラルの向こうに、かすかに彼の香りがする。
あんなこと、言わなきゃ良かったかな。
ただ私は、あの人に幸せでいてほしいだけだ。それだけなのに。
「ねぇ、ヒデ。あなたのこと、私、大好きだよ。でもね、もっとお似合いの女の子がいるんじゃない? 周りに若い女の子、いっぱいいるでしょう? あなたはまだ若いんだし、私じゃない人と一緒になったほうがヒデのためだよ」
その言葉に、彼は珍しく声を荒げ、反論をまくし立てた。
そして「わかったよ。出ていく。荷物は後で取りに来るから」と、部屋を飛び出していった。
私の口から出た言葉が、私を切り刻む。
ワタシジャナイヒト。
私、その人になりたかった。若くて綺麗でまだまだ子どもも産めて、怖いものなんて何もない女性として、彼の前に堂々と立ちたかった。
彼は面倒見がいい。気配りができて、優しくて、それでいていざという時は頼りがいがあるから、社内の若い女の子たちからよく声がかかる。それは、うちの店に飲みにきた彼の同僚たちから、よく耳にする。そうでしょう! そうでしょうとも!と、思う。彼の良さを解ってくれて、ありがとうって。
でも、聞けば聞くほど、いたたまれなくなる。働く彼の姿を間近で見ている若い女の子への嫉妬と、彼への申し訳なさが、心の底に静かに溜まっていく。彼はいつの間にか同僚とは店に来なくなったし、誰も私と彼の関係は知らないから、噂話はいつでもストレートに耳に届いた。
自信がなかった。彼にずっと愛される存在であり続ける自信が。
私は、もうすぐ50だけれど、彼はまだ30そこそこの男ざかり。まだ、これからだから。
離婚して、まだ幼い和輝を育てるために、夜の世界で必死で働いて自分の店を持った。いろんな男に言い寄られたけれど、決して身体を許すことはなかった。和輝に顔向けできないようなことはしたくなかったし、第一、お客さんと深い関係になるなんて、自分の信条に反するから。
それなのに、ヒデはするんと私の懐に飛び込んできた。あれから、もう3年が経つ。
はじまりは、質問だった。
店を始めたきっかけを私に尋ねると、彼は私の人生の敷居を軽々と飛び越えた。ひとりで夜更けに飲みに来ては、ひとつだけ質問をして、私の話を聴く。1日に10分くらいだろうか。質問にひとつのエピソードで答える間に、彼はとても美味しそうに生ビールを1杯飲んで、さっと帰ってゆく。他にお客さんがいようがいまいが、変わらない。彼の帰りと閉店時間が重なっても、変わらない。質問して飲んで聴いてさっと帰る、ルーティーンのような毎日。
1週間も経つ頃には、彼がドアを開けるのを心待ちにしている自分に気付いた。女手ひとつで育てた和輝を社会に送り出し、つい先日、長い介護のすえ独り暮らしの母を見送った話にたどり着く頃には、ちょうど1ヶ月が経っていた。
その晩も閉店間際にきた彼は、誰も他に客がいないのに、レジに近いカウンターの端に座っていた。話を聞き終えるのと同時に、ジョッキが空になる。彼はじっと私の目を見て言った。
「ねぇ。ママは、ずっとひとりで頑張ってきたんだね」
一瞬で、肺がぺしゃんこになった。
泣かない。
そう思ったのに、うっかり涙が滲んだ。
「あれ、おかしいな。ごめんごめん。泣くつもりなんて」
カウンター越しに抱き寄せられ、言葉は彼の唇にさえぎられた。
この小説は、#写真から創る 企画の参加作品です。
後編は、1月7日(木)20:00公開です。
ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!