それは、恋しい思い出の味。《10√2cmの水餃子》
「今夜はなぁ、うたちゃんの好きな水餃子やでな。ちょっと早めに来んさい」
電話の向こうで祖父がそういうと、うれしくて文字どおり飛び上がったものだった。水餃子はおじいちゃんちの冬の定番・・・というか、すこぶる孫うけのいいパーティーメニュー。父も母も私も妹も、誰もが大好きな家族の味。
水餃子っていうと、ひだをたたんだ餃子ではなく、中華料理店の丸っこく小さく包まれたあれでしょ?って思うかもしれない。
でも、おじいちゃんの水餃子は見た目も味も材料も全然違う。だから、これを「水餃子」と呼ぶのは我が実家だけかもしれない。
何ともいえずおいしいのだけれど、おなじ味によそで出会ったことはない。きっと他にはない、おじいちゃん特製レシピなんだと思う。
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転勤族の両親がふるさとに家をかまえたのは、わたしが5年生になる春のこと。そこから24歳で嫁ぐまでのほぼ毎週、日曜の夕食は父方の祖父母の家で食べていた。祖父母は普段は質素な暮らしをしていたけれど、ときには日頃食べられないような季節の高級食材を調理してくれたりもして、いつも日曜の晩は何が食べられるか楽しみだった。
春はたけのこづくし、夏は畑の夏野菜づくし、秋は松茸づくし、冬は牡蠣フライ。季節を問わないものでは、トンカツ、串カツ、牛や豚のステーキ、お店のようなコースの天ぷら、焼き肉、じゃがいもとコンビーフのコロッケ、すき焼きなどなど。
なぜかハンバーグの日だけは祖母が作るのだけれど、メインを作るのはほとんどが祖父の仕事。ごはんと味噌汁やおひたし・煮物などのサイドメニューは祖母の担当だった。
祖父は大正十一年生まれ。「男子厨房に入らず」と育てられた戦前世代の、大事な大事な長男坊だった。
戦時中、航空機の図面を引いていた彼は、戦地へ行っていない。当時祖父が住んでいた家もぎりぎり戦火をまぬかれたから、野営の経験もなさそうだ。おそらく若い頃には調理経験がなかっただろう彼が、何をきっかけに料理をはじめたのかは知らないけれど、わたしの記憶のなかの祖父はデニムのエプロンを身につけ、ボウルと菜箸を手にほほえんでいる。
祖父はいつも食べきれないほどの料理をちいさな90cm四方の食卓に並べ、わたし達が大喜びで食べる姿を満足そうに眺めていた。そして、にっと前歯を見せて笑いながら、得意げに尋ねる。
「どや、おじいちゃんのごはん、おいしいやろう?」
すかさず祖母が笑顔でつっこむ。
「おじいさん、そんないいかたしたら、みんな“おいしい”しかいえないじゃない。ねぇ?」
全くもって、そのとおり。わたし達は「うん! おいしいよ!」と答えざるをえない。いや、間違いなくおいしいのだけれど。
そんなときの祖父と祖母も、間違いなくかわいい。
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正方形の食卓のまんなかにはカセットコンロとホーローのお鍋が置かれている。ホーローといっても、おしゃれな無地のものではなくて、白地に赤やオレンジのポピーが描かれたレトロな両手鍋。
なかには秋のたそがれのような深い黄金色の透きとおった液体がたっぷり入っていて、ガラスのふたを取ると大きなキノコのような湯気があがる。昆布出汁にわずかな塩と淡口醤油。嗅ぐだけで幸せになる香り。一気におなかがすく。
祖父は脇に並ぶお盆を持ち上げて、ひとつずつ三角の餃子を菜箸でつまみ、出汁があばれないようにそっと滑らせていく。そう、三角の。
この餃子は三角だ。どう三角なのかというと、10cm四方の折り紙をななめにたたんだ三角といえば通じるかしら。焼き餃子のように自立せず、お盆のうえでお粉をまとい行儀よく順番を待っている。
厚めの皮は市販のものではない。祖父のいうところの“うどんこ”、つまり小麦粉を練って作られていて、ほんのり黄色い。黄色いのは、卵が入っているから。グローブのように分厚くおおきな祖父の手でしっかりと練られた小麦粉は、冷蔵庫で休ませたあと、1.5mm厚ほどに伸ばされて、包丁でだいたい10cm四方くらいの適当な正方形に切り分けられる。
黄金色の出汁にしずんだ餃子たちは、しばらくくつくつと茹でられているうちに順に浮き上がってくる。出汁の表面をぷっくり膨らんだ餃子が埋めつくしたら、食べごろだ。
そこまでに何度「まだ?」「まんだやなぁ」「もういい?」「おまさん(お前さん)はせっかちやなぁ」を繰りかえしたことだろう。仕上げに祖父が黒胡椒をがりりと挽いて、祖母の「もうええよ」を合図に、わたし達はお玉を奪いあう。
つるっと箸先がすべる水餃子にかぶりつく。
はじめに感じるのは歯ごたえだ。コシのあるうどんのように弾力があって、もっちりしている。次は香りと温度。熱い肉汁が口腔粘膜を直撃するのと同時に、昆布出汁と香味野菜の香りがぶわっとひろがって鼻へ抜ける。そして、すこし遅れてやってくるのが味わいだった。具の人参や玉ねぎとお出汁の甘じょっぱさを、口の入り口で受けとめるのだけれど、たいがい熱すぎて、はふはふしながら「おいひい!」と発するのが関の山だ。
具の・・・人参?玉ねぎ? このあたりを疑問に思うかもしれないけれど、この水餃子の具は、豚肉と人参と玉ねぎとしいたけであって、一般的な餃子に入っているニラとキャベツはおろか、にんにくもネギも入っていない。肉以外の具は包む前にいったん加熱され、生姜とみりんと醤油で甘辛く味つけされている。
ひと口目の餃子を食べ終わらないうちに、毎回、祖父がうれしそうに話すエピソードがある。
「パパが小さかった頃はなぁ、いっつもおじいちゃんといくつ食べられるか競争したもんや。おまさんらも、いくつ食べられるかな? どや、パパとおじいちゃんと競争するか?」
だから毎回、数えながら食べすすめるのだけれど、20個を過ぎる頃からいくつ食べたのかよくわからなくなってくる。何しろ、歯ごたえのある大ぶりなラビオリのようなものを、おいしいお出汁とともに食べ続けているのだから、腹もふくれるというもの。最後にはいつも、いくつ食べたのかわからないまま、おなかをさすっている。
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一度だけ、祖父母に「こんな水餃子、ほかで見たことがない」といったことがある。祖父は「そうやろそうやろ。おじいちゃん特製やでな」といい、祖母は「これはねぇ、“すいとん”に具を入れたようなもんやでね」といった。
戦時中の食べ物がなかった頃、“うどんこ”を練ったすいとんをすまし汁に入れた“すいとん汁”をよく食べたらしい。戦時中のすいとんの中にはもちろん肉など入っていなかったけれど、どうやらこの水餃子は、すいとんを皮に見立てて肉野菜をつめたアレンジ料理がルーツのようだ。
わたしに子が生まれてからも、祖父の家に遊びにいくと、時おりこの水餃子を食べさせてくれた。こども達もこの水餃子が大好きだった。けれど、90の声をきいた頃から祖父は肺が目に見えて弱くなり、だんだん皮を練ったり伸ばしたりする力が失われていった。そして、こども達が大きくなるにつれ、祖父母の家でごはんを食べる機会は減っていった。
5年前、祖父は祖母を残して彼岸へわたった。94歳の大往生だった。亡くなる3ヶ月前くらいまで頭もしゃんとしていたから、もっと彼の話を聴いておけばよかったと今になって思う。昔の話も、彼のレシピも。
踏み込まれたらイヤかもしれないと思ったから、戦争中の話は尋ねなかったし、いつでも食べられると思っていたから、細かいレシピは聞かなかった。
週に1回会えていたあの頃、つくしの袴を取りながら、茄子に割り箸をさして精霊流しの馬を作りながら、渋柿を剥いて紐でつなげながら、餃子を包みながら、みかん片手に箱根駅伝を見ながら、話に耳を傾けられる時間はいっぱいあったはずなのに。
よそでは食べたことのない、透明なお出汁に浮かんだ三角のあの水餃子。大好きでたまらないそれを最後に食べたのがいつだったのか、わたしは今も思い出せないでいる。
背の高いエプロン姿、おおらかな笑顔、おおきな手。
わたしの大好きな、おじいちゃんの水餃子。
それは、恋しい思い出の味。
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このエッセイは、タダノヒトミさんの企画 #いちまいごはんコンテスト に参加しています。
形式(エッセイ、小説、ポエム、短歌、イラスト、漫画、など)は問わず、ごはんでもスイーツでもOK。
締め切りは8月31日(火)らしいので、もしよかったらご一緒に。
あなたの想い出に残る食べ物はなんですか?
==2021.10.04.追記==
この作品は、#いちまいごはんコンテスト で、「爆盛賞」をいただきました! 発表記事で、タダノヒトミさんからとても素敵なコメントを頂いたので、引用しますね。