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インド史⑧ ~ムガル帝国とヴィジャヤナガル王国~
16世紀に北インドを征服して成立したムガル帝国は、スンニ派イスラム教を奉じ、ペルシア語を公用語とした。「ムガル」とはモンゴルを意味するものだが、これは建国者であるバーブルがモンゴル・トルコ系の英雄ティモールの子孫であったことに由来している。征服者の宗教や言語を強要されれば、当然のことながら土着の宗教や言語との間に摩擦が生じることになる。言語においては、宮廷語としてのペルシア語に、北インドの民衆言語であるヒンドゥスターニー語などが融合してウルドゥー語が生まれた。アラビア文字で表記されるウルドゥー語は、現在ではパキスタンの国語となっている。だが宗教においては、一神教のイスラム教と多神教のヒンドゥー教は、簡単には融合しなかった。両者の対立を融和し、帝国の最盛期を現出したのは、第三代皇帝となったアクバルである。
アクバルは1561年に新都アグラを建設、翌年にはヒンドゥー教徒の女性と結婚してイスラムとヒンドゥーの融和を図り、1564年には非イスラム教徒に課していた人頭税(ジズヤ)を廃止した。彼の融和策によって少数征服者層のムスリムと多数被征服者層のヒンドゥー教徒の対立は緩和された。1580年には中央アジア系の貴族の反乱をムスリムとラージプート諸侯の連携によって鎮圧し、北インドからデカン高原北部にまで至る強大な帝国を築き上げた。
軍事・官僚制度の整備に着手したアクバルは、マンサブダール制とジャーギール制を採用した。マンサブは位階、ジャーギールは給与地を意味する。官僚は皇帝によって定められた位階に応じて給与地を授与される。ただしそれは土地そのものではなく、その土地からの徴税権であり、しかも封建制とは違って世襲は認められず、数年ごとに所領替えがあった。これによって官僚の土着化を予防し、皇帝への権力の一元化を図ったのである。
アクバルの時代には、インド文化とムスリム文化が融合し、インド・イスラム文化が花開いた。彼が一時的に遷都したファテープル・シークリーの建物群には、インド土着の赤砂岩建築によるモスクなどがみられ、両文化の融合を象徴する遺跡として世界遺産にも指定されている。イスラム教・ヒンドゥー教のみならず、キリスト教や仏教の賢者をも招いて宗教論議をさせたという場所もあり、アクバル帝の懐の深さがうかがわれる。複数の民族・文化を包含する強大な権力機構を「帝国」と定義するならば、ムガル帝国はアクバルの治世によって、名実ともに「帝国」となったと言えよう。
北インドでデリー・スルタン朝からムガル帝国に至るイスラム勢力の拡大がみられた13世紀から17世紀にかけて、南インドにはヒンドゥー教の小国が分立していた。中でも最も繁栄したのはヴィジャヤナガル王国である。ヴィジャヤナガル王国はインド洋交易におけるアラビア商人との香辛料取引で利益を上げ、香辛料の積出港として繁栄した西海岸マラバール地方のカリカットには、1407年には中国・明から派遣された鄭和の船団、1498年にはポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマの船団が来訪している。世は大航海時代。ポルトガルがインドのゴアに商館を設けると、王国はヨーロッパ世界とも積極的に交易を行った。
ヴィジャヤナガル王国は北方のイスラム教国に攻撃され1649年に滅亡した。17世紀後半には、第6代皇帝アウラングゼーブに率いられたムガル帝国軍の南インド遠征が行われ、インド全域がイスラム化する。ムガル帝国の最大版図を実現したアウラングゼーブは、アクバルの残したムスリムとヒンドゥーの融和政策を撤回し、帝国の徹底したイスラム化を図るが、それはインド内部の宗教対立を尖鋭化し、イギリスによる植民地化を呼び込む遠因となったのである。