連載日本史⑥ 銅鐸と銅矛
渡来系弥生人がもたらしたもうひとつの手土産は金属器だった。土器と石器で一万年近くを過ごしてきた縄文人にとって、鉄や青銅でできた道具との出会いは衝撃的だった。鉄器は主に武器や加工具として、青銅器は祭器として用いられた。縄文土器の持っていた呪術性は青銅器に移り、弥生土器は装飾性の少ない、機能的な美を備えたシンブルなものになった。
石器に比べて切れ味が鋭く丈夫な鉄器は、実用品として重宝された。一方、銅と錫(すず)の合金から成る青銅器は、鉄器に比べて加工しやすいものの、硬度や耐久性に劣るため、もっぱら祭器として活用された。世界史的には青銅器時代の後に鉄器時代が到来するが、日本には弥生時代にまず鉄器が、続いて青銅器が伝わったようだ。
青銅製祭器の変遷と分布には、興味深い傾向が見て取れる。弥生時代前半には小型の銅鐸や銅剣・銅矛などが各地で作られていたのが、後半になると、それぞれが大型化し、銅鐸は近畿から東へ、銅剣・銅矛は四国・九州から西へと、明確に産地が分化していくのである。弥生後期の銅鐸と銅矛の分布図を見ると、まるで東西が完全に異なる文化圏に分かれたようにさえ見える。この青銅器の分布の変遷は、いったい何を意味しているのだろうか?
単純に考えれば、剣や矛は戦いの象徴である。主に西日本の遺跡から発掘された人骨に戦いの痕跡と見られる外傷が頻出するのは偶然ではあるまい。大陸に近く、当時の「先進」地域であった九州を中心とした西日本には集落間の戦闘が頻発し、その過程を通して、ムラからクニへの統合が進みつつあったと考えられるのだ。
それでは近畿地方を中心とした銅鐸文化圏では、集落間の争いや統合が起こっていなかったのだろうか? そうではあるまい。実際、奈良にある弥生時代の遺跡である唐古・鍵遺跡からは、大型の建物や楼閣、外敵に備えた環濠の遺構などが発掘されている。おそらく近隣の集落との小競り合いもあったことだろう。しかし九州を中心とした銅剣・銅矛文化圏が主に武力による統合を進めたのに対し、近畿を中心とした銅鐸文化圏では何らかの呪術的・宗教的手段を用いて統合を進めたのではなかろうか。唐古・鍵遺跡からは青銅器の鋳造施設や、新潟の糸魚川周辺の産と思われるヒスイ製の勾玉(まがたま)も出土しており、専門技術を持った職人の組織や、広い交易ネットワークの形成がうかがわれる。いずれも、ある程度の権力の集中がなければ難しいことだろう。九州vs大和。日本列島の覇権をかけた二大文化圏の衝突が迫りつつあった。