見出し画像

ローマ・イタリア史⑦ ~ジュリアス・シーザー~

ユリウス=カエサル、英語名ジュリアス=シーザー。言わずと知れた、ローマ史上随一の英雄である。ガリア遠征で名を馳せ、三頭政治を共にしたクラッスス亡き後の覇権をポンペイウスと競い合った彼は、ガリアからルビコン川を渡ってローマに帰還し、さらにポンペイウスを追ってプトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアに至った。当時のエジプトはクレオパトラとプトレマイオス13世の姉弟が対立する内紛の渦中にあり、クレオパトラは絨毯に身を包ませて秘かにシーザーとの面会を果たし、彼の心を掴んで味方に引き入れた。シーザーの助力を得てプトレマイオス朝の内紛はクレオパトラ派の勝利に終わり、エジプトはクレオパトラと彼女のもう一人の弟であるプトレマイオス14世が共同統治することになった。紀元前47年、クレオパトラと正式に結婚したシーザーはローマに戻り、ポンペイウス派の残党をはじめとする反対勢力を一掃して10年間の独裁官(ディクタトル)に就任した。ここに彼は、西はヒスパニアから東はエジプトに至るまでの広大なローマにおける、事実上の独裁権力を手にしたのである。

シーザーの実施した数々の政策は、共和政ローマから帝国ローマへの脱皮というベクトルを明確にしていた。広大な地中海世界の覇者となったローマはかつての小規模都市国家の統治原理では到底治めきれない広域多民族国家となっていた。シーザーはガリアをはじめとする属州民にもローマ市民権を得る道を開き、彼らを正規軍に採用した。一方で植民市を積極的に建設し、8万人に及ぶ無産市民を入植させた。すなわち、ローマ本土と属州の人的・物的交流を活性化し、支配機構の一元化を図ったのである。また、エジプト遠征の際に連れ帰ったアレクサンドリアの天文学者に命じて精巧な太陽暦を作らせ、各地でバラバラに使用されていた暦を統一した。シーザーの名をとってユリウス暦と名付けられたこの太陽暦は、中世のグレゴリウス暦によって修正されるまで、およそ1500年にわたって欧州地域の標準暦となる。時間軸の統一は広域支配に不可欠の要素だ。時間を支配するものは空間をも支配し得る。シーザーは数多くの遠征の経験を通じて、その原理を体感していたのかもしれない。

だがシーザーの急進的な改革は、共和政の伝統を守ろうとする元老院を中心とした勢力に強い反発を引き起こした。シーザーは自ら皇帝となって共和政を葬り去ろうとしているのではないかという疑惑が、元老院議員たちの間に芽生え始める。共和政の否定は元老院の存在意義の否定でもある。暗殺計画が秘かに練られた。シーザーが目をかけていた若きブルータスも計画に加わっていた。前44年、元老院会議場に白刃がきらめき、暗殺者たちがシーザーに襲いかかった。「ブルータス、おまえもか」という有名な台詞を遺し、稀代の英雄は壮絶な最期を遂げたのである。

「ガリア戦記」という後世に残る記録を残したシーザーは、文筆家としても一流だった。ルビコン川を渡った時の「賽は投げられた」、小アジア平定の際の「来た、見た、勝った(Veni, Vidi, Via)」など、人口に膾炙した名言も数多い。ドイツ語・ロシア語で皇帝を意味する「カイザー」や「ツァーリ」はシーザーの名前に由来するし、「帝王切開(Caesarean Section)」も彼の名にちなんだ言葉である。政治・経済のみならず、文化面においても、巨人の足跡は今もその名残をとどめているのだ。

いいなと思ったら応援しよう!