連載日本史㊾ 摂関政治(1)
薬子の変以降、藤原氏の中で主導権を握った北家は、婚姻による天皇の外戚としての地位の確保と有力他氏の排斥によって、次第に権力を独占するようになっていった。842年、冬嗣の息子の良房は、皇太子恒貞親王一派の伴健岑・橘逸勢を謀反の疑いで配流した。承和の変である。これにより皇太子が廃され、代わって良房の妹の順子が生んだ道泰親王が皇太子となる。後の文徳天皇である。文徳天皇には紀氏の母を持つ第一皇子の惟喬親王がいたが、良房は娘の明子が生んだ第四皇子の惟仁親王を皇太子に立てることに成功した。文徳天皇の死後、惟仁親王は清和天皇として即位。失意の惟喬親王は出家して小野に隠棲した。その際に臣下の在原業平と交わした歌の交流が「伊勢物語」に記されている。
天皇の外祖父となった良房は、866年の応天門の変で左大臣の源信(みなもとのまこと)に放火の罪を被せて失脚させようとした伴善男(とものよしお)を逆告発して流刑に処し、有力氏族であった伴氏と紀氏を排斥して清和天皇の摂政に就任した。良房の後を継いだ基経は887年に宇多天皇の関白に就任。天皇の幼少時などに代理で政務を執る摂政は律令で規定された役職であるが、関白は令外官として新設されたもので、天皇が成人後も職務を補佐し、天皇より先に奏上を内覧する権利を持っていた。自分に都合の悪い奏上は、その段階で握りつぶせばいいわけだ。まさに藤原氏による藤原氏のためのポストであったと言える。
891年、菅原道真が蔵人頭に就任した。文人としても、政治家としても一流であった道真は外交にも通じており、唐の衰退を見越して894年に遣唐使の中止を建議した。(彼の予見した通り、唐は907年に滅亡する。) 899年、道真は右大臣に就任、同年に基経の息子である藤原時平が左大臣に就任した。道真が自らの地位を脅かすのではないかと恐れた時平は、道真が娘婿の斉世親王を天皇に擁立しようという陰謀を企てていると讒言した。時平の言葉を信じた醍醐天皇は、道真を大宰府の権帥(ごんのそち)に左遷し、道真は都から九州へと追いやられた。梅を愛した文人・道真を追って、庭の梅の木が一夜のうちに九州まで飛んでいったという飛梅伝説が、都を去る時に詠んだ彼の歌とともに残されている。
東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじ無しとて 春を忘るな
道真の死後、内裏の清涼殿に落雷があり、死傷者が出た。これを道真の祟りと恐れた公卿たちは、彼を天神として祀ることにした。受験シーズンになると合格祈願で賑わう京都の北野天満宮や九州の大宰府天満宮は、道真の祟りを恐れた藤原氏一派の罪の意識から生まれた神社なのである。