連載日本史184 殖産興業(1)
明治政府は本格的な資本主義経済導入のために官主導で積極的な産業育成政策を実施した。1870年には工部省が設置され、鉱山・鉄道・工作部門での官営事業の推進を図った。佐渡の金山・生野の銀山などは官営となり、1871年の新貨条例によって円・銭・厘の単位となった新通貨が鋳造された。1872年に新橋・横浜間に開通した鉄道は次々と拡張され、特に都市部と港湾部を結んで物資の輸送に活用された。また、外貨を稼ぐための輸出品の核として、政府は従来から行われていた養蚕業と農村の女子労働力に目をつけ、同年に開業した官営模範工場のひとつである富岡製糸場を中心として、紡績工業の育成に力を入れた。生糸は明治初期の日本からの輸出額の大半を占め、日本の産業革命の起爆剤となった。
1872年、政府はアメリカのナショナルバンク制度に倣って国立銀行条例を制定し、翌年には東京に第一国立銀行が開業した。当初は紙幣の兌換制度の確立と殖産興業への資金供給を目的とし、維新直後に発行された太政官札や民部省札、明治通宝などの不換紙幣に代えて、金貨との兌換を可能とした国立銀行紙幣を発行した。その後、日本の紙幣は兌換と不換の変遷を繰り返し、兌換の対象も金になったり銀になったりと、しばらくは安定しない状況が続くのだが、それまでの幕府や藩や新政府の発行したさまざまな貨幣が流通する混乱を収拾したという点で、貨幣制度統一の意義は大きい。
殖産興業のもうひとつの核となったのは軍需工場の整備であった。東京や大阪には軍直属の砲兵工廠が設立され、武器・弾薬の製造にあたった。長崎・横須賀・石川島には造船所が建てられ軍艦の建造が急ピッチで進められた。まずは軍事優先。結局のところ殖産興業も学制や徴兵令や税制改革と同様、明治政府が一大スローガンとして掲げた「富国強兵」を具現化するための一手段なのであった。
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