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「国語」と「日本語」 ~対照言語学からみた日本語の音声③~

日本語の音声は「拍」を基本単位としており、原則として仮名一文字が一拍に対応している。俳句の五・七・五や短歌の五・七・五・七・七も、五拍・七拍を意味するものだ。ただし例外として「きゃ・きゅ・きょ」「しゃ・しゅ・しょ」「ちゃ・ちゅ・ちょ」などの拗音がある。これらは仮名二文字で成り立っているが、いずれも一拍として認識される。加えて特殊拍というものがある。「ん」(撥音)・「ー」(長音)・「っ」(促音)は、いずれも一拍扱いである。外国人が日本語の発音を学ぶ際に難しいのは、こうした拍のリズム、とりわけ特殊拍の問題である。

じゃんけん遊びで、勝った分だけ前に進むものがある。グーで勝てば「グ・リ・コ」で三歩、チョキで勝てば「チョ・コ・レ・ー・ト」で五歩、パーで勝てば「パ・イ・ナ・ッ・プ・ル」で六歩進む。ここでは拗音の「チョ」、長音の「ー」、促音の「ッ」がそれぞれ一拍と認識されている。(地域によって拗音を分解して「チ・ョ・コ・レ・ー・ト」を六歩とするところもある)

しかし、拍ではなく音節を発音の基本単位とする英語ではこうはいかない。音節は母音を中心とした音のまとまりであり、子音だけの単音が前の母音の音節に吸収されて閉音節を形成する英語では、"glico"は二歩、"chocolate"は三歩、"pineapple"は二歩しか進めない。こうしたリズムの違いも、日本人が英語を発音する際の障壁になっていることは確かだろう。母音で終わる開音節が血肉化している日本語母語話者の耳には"pineapple"は「パナポー」にしか聞こえないし、無意識のうちに本来の英語にはない母音を挟んで発音してしまう現象も往々にして起こるのである。

逆に言えば、外国人が日本語を発音する際にも同じような困難を抱えている可能性があるということだ。母語を通じて血肉化した発音の癖は容易に抜けるものではない。「担任(タンニン)の先生」が「他人(タニン)の先生」になったり、「切って(キッテ)」が「来て(キテ)」になったり、「おじいさん(オジーサン)」が「おじさん(オジサン)」になったりするのも、特殊拍を一拍として認識できないためだと考えれば納得がいく。そうした知識を持っていれば、少々おかしな発音があっても、聴き手の側で予測して修整しながら理解することが容易になるため、コミュニケーションはより円滑に進むだろう。ちょっとした予備知識が相互理解を助けるのである。

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