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ローマ・イタリア史㉙ ~ファシズムの台頭と第二次世界大戦~

第一次世界大戦終結後の戦後不況とベルサイユ体制への不満はイタリアに社会不安をもたらした。その中で台頭したのが社会主義とファシズムである。まずロシア革命の成功に刺激を受けたイタリア社会党が総選挙で勝利し、北イタリアでのストライキを支援して社会主義革命を目指したが、かえって不況を深刻化させたことで支持を失った。一方、反社会主義・反議会主義を掲げて強力な政権の樹立を目指すムッソリーニは、ストライキや工場占拠を行う労働者を襲撃する民兵組織をまとめ、革命を恐れる保守主義者や自由主義ブルジョワジーの支持を得て1921年に全国ファシスト党を組織した。翌年、ファシスト党はローマに進軍し中枢部を占拠。政府は戒厳令を敷いてこれを鎮圧しようとしたが、国王は逆に内閣を罷免し、ムッソリーニに組閣を命じた。社会主義革命への過度の恐れが、議会制民主主義の自滅につながったと言えよう。

ムッソリーニは組閣当初こそ暴力的なイメージを払拭しようと穏健派を取り込んだ妥協的な政権運営を行ったが、次第に独裁色を強めていく。1924年、ファシスト党の暴力を告発した社会党代議士のマッテオッテイが殺害されるという事件が起こった。ムッソリーニの関与が濃厚であったが、彼はファシスト党支持の義勇軍や襲撃隊の力を背景に独裁政治を宣言した。自分が逮捕されたら支持勢力が何をするかわからないと脅しをかけ、国王も国会もそれに屈したのである。1926年には「国家防衛」のためとして全ての野党を廃止し、報道機関にも厳しい統制をかけた。対外的には領土問題で対立を深めるユーゴスラビアに対抗してアルバニアと友好安全条約を結び、事実上の保護国化に乗り出した。また1929年にはラテナノ条約でローマ教皇庁にヴァチカン市国としての主権を認め、長年の教皇領問題を解決に導いた。カトリックを国民の宗教として認め、学校教育にも宗教を正式に位置づけることで宗教を通じた大衆の政治的統制に成功したのである。

もちろんファシスト党の独裁政治に対する不満は少なからずあった。ムッソリーニは国内の不満を海外膨張政策で解消しようとした。1935年にはエチオピアを侵略して併合、翌年にはスペインのフランコ軍に対してドイツのヒトラーとともに軍事支援を行い、ベルリン=ローマ枢軸を成立させ、ファシズム政権同士の連携を深めた。1937年には日本を加えて日独伊三国防共協定を成立させ、枢軸国の一員として国際連盟を脱退。戦争への道をひた走っていったのだ。

1939年、第二次世界大戦が始まるとムッソリーニは当初は「非交戦国」を標榜したものの、ドイツが優勢と見るや、それに便乗して1940年には参戦を宣言した。同年、日独伊三国同盟が締結されたが、エチオピアとスペインで兵力を消耗していたイタリアは連合軍を相手に苦戦し、国内におけるムッソリーニへの批判は高まっていった。1943年、連合軍のシチリア上陸を契機にクーデターが勃発。ムッソリーニは失脚し、イタリア政府は連合軍に降伏し、逆にドイツに対して宣戦布告した。ナチスの手を借りて北部に逃れたムッソリーニは復権を目指してドイツの傀儡政権を組織したが、1944年に連合軍がローマを解放、翌年にはミラノでムッソリーニが処刑され、最終的にはイタリアは連合国側で終戦を迎えたのである。

イタリアにおけるファシズムの台頭と戦争への道のりには、よく似た状況にあったドイツや日本との多くの共通点が認められる。不況や社会不安を背景にした支持の拡大、海外膨張政策による国内不安の解消、反対勢力の弾圧、報道統制による世論誘導など、現代においても警戒すべき点は少なくない。一方で、イタリアが壊滅的な敗戦に至る前に戦線を離脱し、ドイツや日本とは一線を画したのも事実だ。良くも悪くも一枚岩ではなかった国民の適度な不徹底さが、すなわち日本でいうところの「非国民」の存在が、結果として国を救ったのだと言えよう。

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