インドシナ半島史③ ~ドヴァ―ラヴァティー・真臘~
6世紀か7世紀頃に、タイ地域のチャオプラヤ川流域にドヴァーラヴァティー王国が建国された。これは現在のタイ人とは異なり、ベトナム人やクメール(カンボジア)人と同系統のオーストロアジア系に属するモン人による王朝であり、やはりインドの影響を強く受け、上座部仏教を受容した。上座部仏教とは、戒律を厳格に守って伝統を継承し、修行を通じて悟りを開くことを第一義に置く宗派である。一方、中国・朝鮮・日本・インドネシアなどに伝わったのは大乗仏教と呼ばれる宗派であり、個人の悟りよりも広く民衆を救済することに重きを置いた。前者を南伝仏教、後者を北伝仏教とも呼ぶ。
一方、これも6世紀か7世紀頃にカンボジア地域で扶南を滅ぼして成立したクメール王国(真臘)は、同じくインド文明の影響を受けながら、ヒンドゥー教を受容した。単純に並べれば、ビルマ地域とタイ地域にはインドの上座部仏教の影響を受けたピューとドヴァーラヴァティー、カンボジア地域とベトナム中南部地域にはインドのヒンドゥー教の影響を受けたクメール王国(真臘)とチャンパー(林邑・環王・占城)、ベトナム北部は中国の影響を受けた大越国という構図になったわけだ。まさにインド/シナ半島である。
ドヴァーラヴァティー王国を建てたモン人は、タイ地域だけでなく、ビルマ地域にも分布しており、9世紀にはイラワディ川の河口部のペグーにも港市国家を興している。チャンパー・扶南・ドヴァーラヴァティー・ペグーの共通点は、いずれも交易を中心に栄えた港市国家ということであり、これもまた、インドと中国の二大文明圏の間に位置し、海に面して広く東西の交通路の要衝にあったインドシナ半島の地政学的性質をよく表していると言える。それゆえにこその繁栄があった反面で、それゆえにこそ起こった争いもあった。その相克は、次の千年紀に顕在化する。経済的な豊かさは平和を維持するための必要条件ではあるが、それは必ずしも十分条件とはならず、むしろそれが新たな争いを生み出す結果にもつながりかねないのは、人の世の宿命なのかもしれない。