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連載日本史201 日清戦争後の内政

日清戦争後、立憲改進党の流れを引く進歩党の党首となった大隈重信は政権奪取を目指して自由党との連携を模索した。1898年、両党が合同して憲政党が結成され、1898年の総選挙で圧勝を収め、大隈が首相、自由党の板垣退助が内相となって日本最初の政党内閣である隈板(わいはん)内閣が誕生した。薩長出身者以外の総理就任も初めてのことであった。しかしながら、もともと異なる政治思想を持つ両者の連携は長くは続かなかった。尾崎行雄文相が共和演説事件(「日本が共和制になったら」という仮定に立った演説が天皇制の否定だと批判された事件)で辞任すると、その後任を巡って両派は憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)に分裂し、隈板内閣はわずか半年で瓦解した。

隈板内閣(「世界の歴史まっぷ」より)

続いて山県有朋が、憲政党と連携しながら第2次山県内閣を組織した。山県は文官任用令を改正して高級官僚から政党勢力を排除するとともに、治安警察法を公布して反政府勢力への圧力を強めた。また、議会最大勢力の憲政党の協力を得て、地租増徴案を成立させた。増税分は更なる軍拡予算に充当されることになる。さらに山県は軍部大臣現役武官制を導入した。これは陸海軍の大臣を現役の将官に限定したもので、軍における政党色を排除しようとしたものであったが、結果として後世の軍部の暴走を許す遠因となった。

第2次山県内閣(「世界の歴史まっぷ」より)

一方、伊藤博文は独自に憲政党との連携を画策し、1900年、自身が総裁となって、憲政党を母体とした立憲政友会を結成した。同年、第4次伊藤内閣が発足。酒税や砂糖税などの増税法案を成立させた。自由民権運動の中心として政府と鋭く対立してきた自由党の直系である憲政党が、かつでの宿敵であったはずの伊藤と連携し、あまつさえ彼を総裁に迎えたことは、多くの人々に衝撃を与えた。幸徳秋水は、自身が主幹を務めた新聞「万朝報」に、自由党の事実上の死を悼む痛烈な批判を掲載している。

第4次伊藤内閣(「世界の歴史まっぷ」より)

山県・伊藤は、幕末・維新以来の生え抜き政治家である。その老練な手管で山県は官僚や貴族院に支持を広げ、伊藤は政党勢力を絡め取った。二十世紀に入ってからも、彼らは「元老」として政治への影響力を保持し続けた。1901年、山県系の官僚・貴族院の支持を受けた桂太郎が首相に就任する。この後、十年以上にわたって、山県系の桂と、伊藤系の立憲政友会を支持基盤とした西園寺公望とが交互に首相に就く、桂園時代が現出するのである。

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