インドシナ半島史② ~ピュー・扶南・林邑~
ベトナム北部地域のドンソン文化が紅河(ホー河)流域に興ったのと同様、ビルマ地域を流れるイラワディ川中流域にはピュー、カンボジア地域を流れるメコン川流域には扶南(ふなん)が興った。ピューはシナ・チベット語族に属する民族で、インドの影響を受けて仏教色の強い古代王国を建設した。ピューは8世紀に全盛を迎えるが9世紀に中国南部に興ったチベット民族系の南詔に圧迫されて姿を消す。宮殿や仏塔を含むピューの古代遺跡は煉瓦造りの城壁で囲まれた城塞都市の姿をとどめ、2014年に世界遺産に登録された。
扶南を建てたのはオーストロ・アジア系のクメール人かマレー・ポリネシア系のマレー人のいずれかだと考えられている。扶南もインド文明の影響を強く受けたが、こちらはヒンドゥー教色が強かった。扶南はメコン川を利用して内陸の物資を南シナ海へ運び、インドや中国との交易で利益を上げた港市国家であった。タイランド湾に面したメコン川下流域のデルタ(三角州)地帯に位置する扶南の港市遺跡であるオレオからは、インド製の仏像やヒンドゥー教の神像のほか、中国・後漢時代の鏡やローマ五賢帝時代の金貨なども出土しており、その交易の幅広さがうかがわれる。
扶南と同じく港市国家として栄えたのが、2世紀にベトナム中部から南部にわたる地域でチャム人が建てた林邑である。当初は中国の影響が強かったが3世紀頃から急速にインド化し、サンスクリット語でチャンパーと自称するようになった。チャンパーは8世紀頃には環王、9世紀以降は占城として中国の史料に現れるが、その遺跡にはヒンドゥー教の影響が色濃く残っており、この地域がインドシナ半島におけるインドとシナ、すなわちインド文明と中国文明の影響圏を分かつ最前線であったことを物語っている。
こうしてみると、ベトナムの北部と南部は、文化的に大きく異なる歴史を辿っていたことがわかる。20世紀に起こったベトナム戦争は、東西冷戦の代理戦争という側面から語られることが多いが、そもそも古代においては、北部と南部は異なる文化圏に属していたと言えるのである。そうした歴史的・文化的な側面からベトナム戦争を捉え直してみると、新たな一面が浮かび上がってくるかもしれない。