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オリエント・中東史⑧ ~ヘレニズム~

三度にわたるペルシア戦争とその後のペロポネソス戦争によって疲弊した古代ギリシアとアケメネス朝ペルシアの間隙を縫って、バルカン半島北部の小国であったマケドニアが台頭した。紀元前338年、フィリッポス2世に率いられたマケドニア軍がカイロネイアの戦いで、ギリシアのアテネ・テーベ連合軍を破る。フィリッポスは部下に暗殺されたが、彼の息子であるアレクサンドロスが父の野心を引き継いで大王を名乗り、東方への大遠征を開始した。

前333年、地中海東岸のイッソスの戦いで、マケドニア軍とペルシア軍が激突する。荒馬を乗りこなし、長槍を武器に自ら陣頭に立って破竹の勢いで攻め立てるアレクサンドロス大王の前にペルシアの大軍は散り散りになって敗走し、多くの王族たちが捕虜となった。大王は捕虜を丁重に扱い、後に東西融合政策の一環として王女スタテイラと結婚した。南に下ってフェニキア、エジプトと占領地を広げた彼は、エジプトではファラオの後継者として戴冠し、地中海沿岸のナイル川河口に、自らの名を冠したアレクサンドリア市を建設した。前300年、ペルシア王ダレイオス三世がバクトリア総督に暗殺されてアケメネス朝が滅ぶと、大王は「王殺しへの懲罰」を理由として更なる東方遠征を決行。各地の軍を次々と撃破して中央アジア・インダス川西岸に至る大帝国を、一代にして建設したのである。

アレクサンドロス大王は東西融合を念頭に置き、オリエント的な専制君主制を継承しながら、ギリシア人兵士とペルシア人女性の集団結婚による混血化や、ギリシア語の公用語化(コイネー)とペルシア人官僚の登用の並行、約70にも及ぶアレクサンドロス植民市の建設などの事業を精力的に進めた。だが、アレクサンドロスの超人的な活躍によって成立した帝国は、彼が健在であってこその存在であった。彼が32歳の若さで死去すると、後継者争いによる戦争が頻発した。中でも最大の戦闘となったイプソスの戦いを経て、広大な帝国は、前3世紀に、イラン地域を支配するセレウコス朝シリア、新都アレクサンドリアを首都とするプトレマイオス朝エジプト、バルカン半島を根拠地とするアンティゴノス朝マケドニアに分裂する。アレクサンドロスの築いた大帝国は、わずか30年で瓦解したのであった。

帝国は短命に終わったものの、アレクサンドロスの活躍が世界にもたらしたインパクトは大きかった。彼の遠征と帝国建設によって融合した東西の文化はヘレニズム文化と呼ばれ、それはさらに西に伝わってローマ世界へ、また東に伝わってガンダーラ文化を経て中国、果ては日本にまで文化的影響を及ぼしたのだ。いわば古代世界最大のグローバリゼーションだったと言える。そこには広大な世界の中で個人の生き方を探求するコスモポリタニズム(世界市民主義)が生まれ、ミロのビーナスやラオコーンなどの躍動美に満ちた彫刻、ストア派(禁欲主義)やエピクロス派(快楽主義)などの人生哲学、アルキメデスやエウクレイドス(ユークリッド)らによる自然科学の発達、エジプトのアレクサンドリアにおける研究機関ムセイオンの設立など、後にルネサンスを経て近代の萌芽につながるような活力にあふれた文化が栄えた。アレクサンドロスが開いた東西の風穴を通して、新たな風が吹き抜けたのである。

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