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連載日本史103 室町文化(4)

鎌倉仏教の諸派は、室町時代に、それぞれ独自の発展を遂げた。臨済宗は五山十刹の制を通して政治と深く結びついたが、それを潔しとしない禅宗諸派は「林下(りんげ)の禅」と称して五山派から距離を置き、自由な布教活動を行った。その代表格が大徳寺の僧であった一休宗純、すなわち「一休さん」である。自由を重んじた彼の風狂を描いた数々の逸話は、少年僧の頃の頓智話も含めて、現代でも親しまれている。

一休宗純(WIkipediaより)

浄土真宗(一向宗)では蓮如が出て、庶民にもわかりやすい御文(おふみ)を用いた布教活動によって、近畿・北陸・東海に信徒を増やした。彼は越前(福井)に吉崎御坊と呼ばれる道場を開いた。その後、北陸で一向宗門徒の国人・農民たちと守護勢力との対立が激化。蓮如は御坊を去ったが、門徒たちは彼を精神的支柱として加賀一向一揆を起こし、守護を追い出して、百年に及ぶ自治支配を実現した。宗教パワーを強烈に見せつけた事件であった。

蓮如上人像(Wikipediaより)

日蓮宗では日親が京都を中心に活躍し、「立正治国論」を著して六代将軍義教に改宗を勧めたが投獄される。権力の弾圧に屈せず布教に努める彼の姿は庶民からの敬意を集め、町衆(商工業者)の間に信徒を増やした。十六世紀には京都町衆の間で、法華宗(日蓮宗)徒と一向宗(浄土真宗)徒の対立が深まり、1532年には法華宗徒が山科本願寺を焼き打ちして一向宗徒を追い出し、町政を独占支配した(法華一揆)。四年後、今度は延暦寺の僧兵たちが近江の六角氏と組んで、洛中の21ヶ所に上る日蓮宗寺院を焼き打ちして法華宗徒を京から追放した。こうなるともはや宗教戦争である。

鍋をかぶせられて迫害を受けたとされる日親(開山日清上人徳行図より)

浄土真宗の開祖の親鸞や、法華宗の開祖の日蓮が、このような事態を望んでいたはずはないのだが、信仰の力が暴走を始めると抑えきれなくなるのは古今東西変わらない。同じ頃、ヨーロッパでは宗教改革が起こり、カトリックとプロテスタントの対立が激しさを増していた。日に日に勢力を強めるプロテスタントに対して危機感を持ったカトリック側は、イエズス会を組織して自己改革と新天地での布教活動を始める。その一環として東洋に派遣されたフランシスコ・ザビエルが鹿児島に漂着したのは、同じく16世紀半ばの1549年のことであった。




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