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連載中国史13 項羽と劉邦(1)

秦を攻め滅ぼしたのは、項羽と劉邦の連合軍であった。彼らは反乱の大義名分として、秦に滅ぼされた楚の王族の末裔である懐王を立てていた。諸将の士気を高めるため、懐王は「秦の首都である咸陽を最初に落とした者を関中の王とする」との詔を出した。諸将は競って咸陽を目指した。

項羽と劉邦の進軍ルート(sohu.comより)

項羽と劉邦の連合軍と書いたが、実際には楚の大将軍の血をひく項羽の方が圧倒的に格上であり、当時最強と呼ばれた秦の章邯将軍率いる主力軍を撃破したのも項羽であった。鬼神の勢いで函谷関に迫った項羽軍であったが、彼が死闘を繰り広げている間に、別働隊である劉邦軍が南の武関から関中に入り、一足先に咸陽を落としてしまった。まさに漁夫の利である。

鴻門の会関係図(shingakunet.comより)

思わぬ幸運に舞い上がった劉邦は函谷関を閉鎖し、項羽の怒りを買う。咸陽郊外の鴻門に呼び出された劉邦は、項羽に対してひたすら平身低頭して許しを乞う。項羽の参謀である范増は劉邦を危険人物とみて暗殺を強く進言したが、劉邦の低姿勢に気勢を削がれた項羽は范増の忠告を受け入れなかった。劉邦は項羽に咸陽を明け渡し、項羽は咸陽を焼き払って澎城に根拠地を移して西楚の覇王と称する。命拾いした劉邦は僻地である蜀漢の地に封じられ、再起の時機を待った。

楚漢戦争中期の勢力図(nishiharu-jsk.hatenablod.comより)
<井陘は劉邦側の韓信が背水の陣を敷いたところ>

鴻門の会のエピソードは、両将のキャラクターの違いを如実に描き出している。強烈な自負心と実力を持った猛将の項羽と、個人としての能力は高くはないものの多様な人材を受け入れる度量を持った劉邦。彼が項羽の前でひたすら頭を下げたのは参謀の張良の助言に従ったからからであり、咸陽の財宝に手をつけずに項羽に明け渡したのも側近の蕭何の助言を受け入れたからであった。一方、項羽は范増の助言を受け入れず、自らの気分による判断を優先した。項羽は自分に従う者には優しいが、歯向かう者や批判する者に対しては一族も含めて容赦なく皆殺しにするという極端な面も持っていた。良くも悪くも、個としての能力や感情が強すぎたのだと言える。その圧倒的な破壊力があったからこそ秦を滅亡に追い込むことができたわけだが、以後の統治においては、彼の強烈な個性が裏目に出た。彼についていけない諸侯たちの反乱が各地で起こり、その様子を見て劉邦は反項羽の狼煙を上げた。范増にしてみれば、それ見たことか、といったところだろう。

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