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ローマ・イタリア史⑬ ~帝国の分裂~

3世紀末から4世紀にかけて、ディオクレティアヌス帝による分割統治下に置かれたローマ帝国は、後継のコンスタンティヌス帝によって、東方に重心を移した形で再統一される。313年のミラノ勅令でキリスト教を公認した帝は324年のアドリアノープルの戦いで東の正帝を名乗っていたリキニウスを破り、翌年のニケーア公会議を自ら主宰して教義を統一。イエスの神性を認めないアリウス派を異端として退け、イエスを神格化するアタナシウス派を正統と位置付けた。先代のディオクレティアヌス帝が迫害したキリスト教を、逆に帝国再統合の求心力として利用しようとしたのである。

330年、帝は黒海と地中海を結ぶボスフォラス海峡に面し、アジアとヨーロッパの接点に位置するビザンティウムに首都を移し、自らの名を冠してコンスタンティノープルと改称した。332年にはコロヌス(小作民)の異動を禁止する土地緊縛令を発し、コロナトゥス(小作制度)の固定化を通して帝国の経済面での安定化を図った。これは古代の奴隷労働力に依拠した大土地農業経営(ラティフンディウム)から中世の農奴制への橋渡しとなる。新首都のコンスタンティノープルは後に東ローマ帝国の首都からオスマン帝国の首都イスタンブールへと名を変え、東西文明の十字路として、現代に至るまでの繁栄を誇ることとなった。

しかしながら、肥大化から分裂に向かう帝国のベクトル自体が劇的に方向転換することはなかった。帝の死後、帝国は再び分裂に向かう。379年に帝位に就いたテオドシウス帝は、381年にコンスタンティノープル公会議を召集し、アタナシウス派の教義を強化した三位一体説(父なる神と子たるイエスと精霊とは一体であるという、かなり強引な一神教原理)を正統として教義の再統一と帝国の再統一を図った。さらに392年には異教徒禁止令を発してキリスト教を事実上国教化し、帝国の精神的支柱にしようと企てたのだ。

とはいえ現実には広大な帝国の一元的統治は不可能なレベルに達していた。コンスタンティヌス帝にせよテオドシウス帝にせよ、それがわかっていたからこそ宗教の力を借りようとしたのかもしれない。結果的に勢力を伸ばしたのはキリスト教アタナシウス派であり、対立する宗派や宗教は追いやられ、中世ヨーロッパにおけるキリスト教世界確立の素地が形成された。テオドシウス帝は自らの死に際して二人の息子をそれぞれ東西ローマ皇帝に指名。395年に東西ローマ帝国の分裂が確定したのであった。

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