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「国語」と「日本語」 ~国語教育と日本語教育⑥~

言語教育の教授法に関して直接法か間接法かという議論がある。直接法とは目標言語のみを用いて授業を進めていく方法、間接法とは説明の際に学習者の母語などの媒介語を用いる方法である。日本の学校での英語教育は長年、日本語を用いて英語を教える間接法が主流であったが、2008年に告示された高等学校学習指導要領では、「授業は英語で行うことを基本とする」と明記された。この方針は2018年告示の新学習指導要領でも変わっていない。これによって少なくとも高校での英語教育は直接法で行うことが、文部科学省の基本方針として明確に掲げられたことになる。

日本の学校で長らく間接法が主流であったのは、教師も生徒も日本語母語者であり共通の媒介語使用が可能であったという前提によるところが大きい。そもそも学習者の母語が共通でなければ、媒介語の使用自体がままならないため、たとえば中国・韓国・ベトナム・インドネシア出身の学習者が混在する日本語教室などでは、間接法の前提自体が成り立たないだろう。複数の言語が並立する多言語国家でも同様の状況が生じていると思われる。つまり、間接法が成立するのは学習者と教授者が共通の媒介語を持っている場合のみであって、そうでない場合には直接法以外の選択肢はあり得ないのだ。

直接法では、全く目標言語を知らない初級の学習者に対しても、その言語を用いて授業を展開せざるを得ないため、身振りや表情や教具などをフル活用した創意工夫が教師の側に求められるという難しさがあるが、学習者にとって目標言語に直に触れ、それを実際に使ってみる機会は増える。一方、媒介語を用いた間接法には、直説法では難しい文法事項や語彙の細かい説明が容易にできるという利点があるが、その分だけ学習者が目標言語を実際に使う機会が減るわけで、コミュニケーションの手段としての言語習得にとってはマイナスになりかねない。双方のメリット・デメリットをよくわきまえた上で方針を決めていく必要があるが、個人的には、直接法を基本としながら、必要に応じて媒介語を入れていくスタイルが良いのではないかと考える。

間接法を用いた教授法の代表格は、かつて日本の学校英語教育で主流であった文法訳読法であろう。古くはヨーロッパ中世のラテン語文献解読の指導に用いられた歴史ある指導法で、現代の国語教育における古典の授業は今もなお、この形式が主流である。しかしこれは、対象がラテン語や古文・漢文という実社会ではコミュニケーションに使われることのない言語であるからこそ有効であった指導法であり、現実のコミュニケーションよりも大量の文献を読むことが優先された文明開化期の日本ならともかく、人の移動が飛躍的に流動化した現代社会にはそぐわないと思われる。

直接法を用いた教授法にはさまざまなスタイルがあるが、最も有名なものは20世紀後半に英語教育の方法論として世界中に広まったオーディオ・リンガル・メソッドであろう。「習うより慣れろ」式の徹底した口頭練習を特徴とするこの方法では、反復・代入・拡大・結合などの機械的発話トレーニングの繰り返しによって、目標言語を耳と口で覚え、身体にたたき込んでいくことが求められる。米国の行動主義心理学と構造主義言語学を背景に生まれたこの方法論は、正確な言語構造の理解という点で大きな成果を上げたが、パターン・プラクティスに徹し過ぎたために、可塑的な現実のコミュニケーションへの対応という点では不十分だと批判を受けた。

替わって最近広く提唱されるようになったのが、コミュニカティブ・アプローチである。これは「友人と相談して旅行の計画を練る」「同僚や上司と協力してイベントの企画書を作る」などのように、現実の社会で起こりうるような課題(タスク)を設定し、学習者相互のやりとりを通じて目的を達成していく過程で試行錯誤的に言語能力を高めていくというものである。先述したカリキュラム理論でいえば、経験主義・Can-doシラバスの傾向を強く持った教授法だと言えよう。

教授法には他にもさまざまなものがあるが、ここでも大切なのは、いくつかの引き出しを持ち合わせておき、学習者や教室の状況に応じて対応を調整できる柔軟性であろう。英語教育の分野での試行錯誤の数々は、同じく言語教育である日本語教育の分野でも十分に応用可能だし、国語教育の分野でも、その知見は十分に役立つものだと思うのである。

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