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連載日本史65 平氏政権(2)

1180年、高倉天皇が譲位し、数え年三歳の安徳天皇が即位した。安徳天皇は清盛の娘徳子(建礼門院)と高倉天皇の間に生まれた子であり、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかだった。皇位継承の望みが断たれた後白河院の皇子の以仁王(もちひとおう)は、平氏打倒の令旨を発した。平家に反発する興福寺や園城寺などの寺社勢力や、源頼政などの武士たちが同調したが清盛は迅速に手を打ち、反乱を鎮圧して以仁王と頼政らを討ち取った。寺社勢力の脅威を感じた清盛は、周囲の反対を押し切って京都から福原への遷都を強行。結局うまくいかず、半年で都は京に戻る。その間に、以仁王が遺した令旨は、全国に飛び火していた。

南都焼討(rekisiru.comより)

伊豆では源頼朝が挙兵、石橋山の戦いで一度は敗れるも巻き返しを図り、北条氏をはじめとする東国武士たちの支援を得て鎌倉に拠点を置き、富士川の戦いで勝利を収めた。富士川の戦いでは、水鳥の羽音を敵襲と勘違いした平家軍が自滅し敗走。貴族化して武芸の鍛錬を怠っていた平氏の、軍事面での弱体化を世にさらす結果となった。信州では源(木曽)義仲が挙兵。北陸道からの上洛を目指した。一方、劣勢の平家軍では、反抗する寺社勢力に対して平重衡が南都を焼き打ち、東大寺大仏殿や興福寺が炎上し、反平氏感情を更に煽る結果となった。

高熱で黒煙が出たという清盛の臨終場面(「平家物語絵巻」より)

1181年、清盛が高熱を発して死亡する。「墓前に頼朝の首を供えよ」と言い残しての、壮絶な最期であったという。悪いことは重なるもので、同じ年に養和の大飢饉が起こる。二年にわたった飢饉で大量の餓死者が発生し、平氏政権は、経済面でも大きな打撃を受けた。

道の駅倶利伽羅の火牛像
(Wikipediaより)

1183年、倶利伽羅峠の戦いで平維盛軍に勝利した木曽義仲が北陸路から京に攻め上り、平氏一門はとうとう都落ちする。義仲が飢饉で疲弊した都で無慈悲な略奪を行ったため、後白河院は頼朝に義仲討伐を要請、見返りに頼朝の東国支配を容認した。頼朝は自らは鎌倉から動かず、弟の範頼・義経を派遣して義仲を討たせた。都を追われた義仲は近江・粟津で敗死。院は今度は範頼・義経軍に対して平家追討の要請を出し、義経はそれに応えて摂津一の谷で、敵の背後の急斜面を馬で駆け下りて奇襲する「鵯越(ひよどりこえ)の逆落とし」戦法で平家軍に勝利した。この時、須磨の海岸で熊谷直実に討ち取られた若武者・平敦盛の悲劇は、平家物語にドラマチックに描かれ、後には謡曲や能の題材にもなっている。

平敦盛と熊谷直実(「一の谷合戦図屏風」より)

一の谷の合戦後、後白河院は義経に恩賞として頼朝の推挙なしに官位を叙任、義経も頼朝の承諾なしにそれを受けている。これが後の頼朝・義経兄弟の対立の契機となった。1185年には讃岐屋島の合戦で、海上での戦いを
想定していた平家軍に対して、陸路からの奇襲を行った義経軍が、またしても勝利を収めた。この時には、平家軍の船の上で波に揺らぐ扇の的に、弓の名手の那須与一が見事に矢を命中させたという逸話が残っている。

屋島合戦で扇の的を射抜く那須与一(「平家物語絵巻」より)

華々しい活躍を続ける義経とは対照的に、頼朝は鎌倉にとどまったまま、新たな武家政権の基盤を着々と固めていた。富士川の戦いに勝利した1180年には既に軍事・警察・御家人の統率を司る侍所(さむらいどころ)を設置し、一の谷の合戦のあった1184年には公文所(くもんじょ)・問注所(もんちゅうじょ)を設置して行政・司法制度を整えている。平家滅亡を見越して、その後の体制づくりに精を出していたわけである。

頼朝と義経(blog.goo.ne.jpより)

天才的な軍事の才を持ちながら政治的才能に乏しかった義経と、軍事の才はさほどでもなかったが政治的資質に恵まれていた頼朝は、平家という共通の敵が存在する間は、互いの足りない部分を補い合う最強のタッグであった。だが、平家滅亡が近づくにつれ、ふたりの対立は顕在化する。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)煮らる。獲物がいなくなれば猟犬は不要だ。戦争が終われば、政治感覚に欠けた天才軍人は、かえって危険な存在となる。義経の非凡な軍事的才能は、平家を滅ぼしただけではなく、自らをも滅ぼす悲劇へとつながっていったのである。







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