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連載日本史180 明治維新(4)

矢継ぎ早の改革は続く。廃藩置県の翌年の1872年には全国に学制が公布された。前年の官制改革で設置された文部省による教育行政の明示であった。全国を八つの大学区に分け(翌年には七学区に再編)、さらにそれを中学区・小学区に分割して、各学区に大学・中学・小学校を設立することを定めた。当初の理念では、全国民の就学・実学重視・個人の立身出世の思想などが示されており、特に小学校設立に力点が置かれていた。各藩や民間に任されていた教育制度を国の管理下に一元化し、全体の底上げと標準化を図ったのである。しかし、特に農村では子供は貴重な労働力であり、学校など必要ないと考える農民も多く、しかも経費は個人負担であったので、各地で学制反対一揆が起こった。義務教育が常識となっている現代から見ると隔世の感がある。初期の義務教育は小学校四年までの四年間であったが、それでも多くの農民からは、時間と金の無駄だと思われていたのだ。

明治時代の小学校の変遷(ctty.katsushika.lg.jpより)

1873年には税制の一大改革である地租改正が行われた。これは従来の年貢が不安定な収穫高を課税基準にしていたのに対し、一定の地価を基準とした納税制度に変更するもので、安定財源の確保を目的とした改革であった。納税方法も物納から金納に統一された。納税者は従来の本百姓・村単位から土地所有者・個人単位へと変更され、税率は豊凶に関わらず地価の3%に統一された。とにかく税収の安定が最優先とされたのである。

地租改正で発行された地券(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

地租改正による全国区一律の租税制度導入は政府に安定した税収をもたらしたが、納税責任者となった地主の中には、高率の小作料を強いることで小作人に地租の負担を転嫁し、自らは耕作に関わらず寄生地主化する者も少なからず現れた。小作人の多くは更に貧窮化し、農村の階層分化が進んだことで農民の不満が増大し、各地で地租改正反対一揆が起こった。結局、政府は四年後には税率を2.5%に下げることとなったが、税率の固定は農村の生産性向上に寄与したという一面もあった。納税額が同じなら、収穫高が増えた分は自分の利益になるということで、農民の勤労意欲が高まったのである。何より全国の土地に対して個人の所有権を公式に認めたという点で地租改正は画期的な改革であり、近代資本主義経済の形成へと踏み出す大きなステップでもあった。

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