バルカン半島史⑱ ~オスマン帝国のバルカン支配~
13世紀末から14世紀初頭にかけてアナトリア(小アジア)に興ったトルコ系イスラム勢力のオスマン国は、ビザンツ帝国の内部分裂に乗じてダーダネルス海峡からバルカン半島に進出、14世紀半ばにはムラト1世が半島の要衝であるアドリアノープルを攻略して1366年に新首都エディルネと改称した。1389年のコソヴォの戦い、1396年のニコポリスの戦いでキリスト教連合軍に連勝したオスマン軍はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに迫ったが、1402年のアンカラの戦いで中央アジアから急激に勢力を拡張したティムール軍との戦いに敗れ、一時は壊滅的な状態に陥った。しかし、ティムール帝国が矛先を東方に向けたためにオスマン国は息を吹き返し、メフメト2世は再びコンスタンティノープル攻略に挑んだ。特注の巨砲で強固な城壁を破壊したオスマン軍は1453年、ついにコンスタンティノープルを陥落させた。ここにローマ帝国分裂以後1000年近くの歴史を持つビザンツ帝国は終焉の日を迎えたのである。
強大な軍事力を誇ったオスマン帝国の主力となったのは、イェニチェリと呼ばれる、鉄砲を持った歩兵の精鋭部隊であった。彼らは主にバルカン半島で徴用されたキリスト教徒の子弟であり、スルタンの奴隷として親衛隊の役割を担ったエリート集団であった。そういう意味では奴隷といっても地位は高く、俸給も保証されていた。1514年にはチャルディランの戦いでイェニチェリの鉄砲隊が当時最強といわれたサファーヴィー朝の騎兵隊を撃破した。戦闘の主流が騎兵隊から鉄砲隊へと移ったことを示す事件であった。1575年に日本で織田信長が武田の騎兵隊を鉄砲で打ち破った長篠の戦いも、この流れの延長線上にあると言える。
コンスタンティノープルをイスタンブールと改称して新首都に定めたオスマン帝国は更にバルカン支配を固めていく。16世紀初頭のセリム1世の時代にはセルビア・ボスニア・アルバニア・ギリシャを征服して領土に編入、更にドナウ川を越えてワラキア・モラヴィア・トランシルヴァニア(いずれも現ルーマニア)を属国とした。オスマン帝国は征服したバルカン各地で、トルコ人騎士のシパーヒーたちにティマールと呼ばれる知行地の徴税権を与えて支配し、ギリシャ正教会などのミッレト(宗教共同体)に一定の自治を認めた。デヴシルメと呼ばれたキリスト教徒子弟の徴兵は被征服民にとって苦痛であっただろうが、彼らにはスルタン親衛隊イェニチェリとしての出世の道も残されていた。スラブ系・ラテン系・ゲルマン系の民族が混在し、ギリシャ正教・カトリック・イスラム教が並立するバルカン半島では、統治の上で強制と寛容のバランスが非常に難しいところだが、オスマン帝国はその困難を辛うじてクリアしていたと言えよう。それはバルカン支配にとどまらず、国内に多民族・多宗教・多文化を抱える「帝国」には不可避の条件だ。そういう点では、オスマン国はバルカン進出によって、文字通りの「帝国」となったと考えられるのである。
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