オリエント・中東史㉝ ~トルコ革命~
第一次世界大戦での敗北は、オスマン帝国に致命的な打撃を与えた。終戦の翌年にはギリシア・トルコ戦争が勃発。連合軍の支持を受けたギリシア軍がアナトリア(小アジア)のイズミルを占領する。1920年に連合国との間で締結されたセーブル条約は、大戦中に英国主導で秘密裏に結ばれたサイクス・ピコ協定に基づき、オスマン帝国の広大な領土を戦勝国間で分割するものであった。これにより、イラク・トランスヨルダン・パレスチナはイギリス、シリア・レバノンはフランスの委任統治領となり、キプロスはイギリス、アナトリアの中部はイタリア、南部はフランス、西部はギリシアに割譲され、トルコ(オスマン帝国)領はイスタンブールとアンカラ周辺のみとされた。ボスフォラス・ダーダネルス海峡は国際管理とされ、英仏両国の治外法権とカピチュレーション(貿易特権)も維持されるなど、トルコにとっては屈辱この上ない内容であったが、スルタンのメフメト6世は自己保身から条約に調印。これに対して国民から激しい批准拒否の運動が起こったのである。
運動の中心となったのは、アンカラに大国民会議を招集し、スルタン政府から自立して新政権を樹立したムスタファ・ケマルである。1921年から22年にかけて、アナトリアのギリシア軍を駆逐してイズミルを奪回したケマルは、ギリシアとの講和後、スルタン制を廃止した。1923年にはケマルを初代大統領とするトルコ共和国が成立し、400年以上にわたったオスマン帝国の歴史は幕を閉じたのである。
かつての青年トルコ革命で政権を握ったエンヴェル・パシャが領土拡大に執着した結果として敗戦と亡国の危機を招いた教訓をふまえ、トルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマル・パシャは、アナトリアのみをトルコ人の祖国として守るというナショナリズムを提唱した。1923年にはセーブル条約を破棄し、新たな講和条約としてローザンヌ条約を欧米諸国と締結。アナトリア全体の領土主権を確保し、治外法権やカピチュレーション等の不平等条約を撤廃することにも成功した。だが、トルコの領土主権回復に伴って、ギリシアとの間で強制的な住民交換が行われ、もともとアナトリアに住んでいた多くのギリシア人住民が移住を余儀なくされ、その後のギリシアとトルコの対立は、キプロス島の分断にもつながった。また、セーブル条約で認められていたクルド人の独立は取り消され、トルコ・シリア・イラクにまたがるクルド人問題は、現代に至るまで尾を引くことになる。
イスタンブールからアンカラへと首都を移したケマル・パシャは、1924年にカリフ制を廃止して政教分離を実現し、新生トルコ共和国の世俗主義化・近代化に努めた。トルコ語を国語として制定し、表記をアラビア文字からローマ字ベースに改めた文字革命、女性のチャドル(顔を隠すヴェール)の廃止や一夫一妻制の導入、イスラム暦から太陽暦への移行、トルコ帽(フェズ)の廃止など、彼の行った文化政策も含む一連の近代化政策は、西洋化を基調としている点で、明治日本の近代化と共通点が多い。1934年、ケマル・パシャは近代トルコ建国の功労者として、議会からアタチュルク(トルコの父)の称号を贈られた。同年、イスタンブールのアヤソフィアがイスラム教のモスクから博物館へと改められた。現在では世界遺産となっているアヤソフィアは、元を辿ればローマ帝国時代にキリスト教の大聖堂として建設されたものだが、15世紀のコンスタンティノープル陥落に伴ってイスラム教モスクへと改装されていたのだ。アヤソフィアの博物館化は、新生トルコの世俗主義と宗教的寛容を示すシンボルとなった。彼が樹立した政教分離の原則は20世紀を通じて歴代政権に継承されてきたが、2020年になってトルコのエルドアン大統領は、アヤソフィアの再モスク化の方針を明らかにした。時代に逆行する行為である。国内のイスラム教原理主義者たちの支持を得るためだとも言われている。そうした短期的・個人的な利益のために、長きにわたって築いてきた統治の知恵の象徴を、やすやすと変質させてしまって良いものだろうか? 大いに疑問が残るところだ。
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