連載日本史208 産業革命①
日本の産業革命は1880年代後半、綿工業から始まった。1883年に渋沢栄一によって設立された大阪紡績会社(現在の東洋紡)は、低価格の中国綿花を原料とし、イギリスから輸入したミュール紡績機を昼夜二交代制労働でフル稼働させ、綿糸の安価大量生産を実現した。1886年には第二工場も完成。同年に松方財政下で銀本位制が確立し、融資の安定を得て、大阪を中心に大規模な紡績工場が次々と設立され、1890年には綿糸生産量が輸入量を超えた。ミュール紡績機は更に操作性や生産性の高いリング紡績機へと世代交代し、より安価なインド綿花の輸入実現もあって国産綿糸の生産高は飛躍的に伸び、1897年には輸出量が輸入量を超えた。同年に貨幣法が改正され、日本は国際市場の世界標準であった金本位制に移行した。
紡績の次は綿布の生産である。1896年、豊田佐吉によって動力織機が発明され、綿布生産額は急上昇した。条約改正による関税自主権の一部回復や政府の輸出奨励制度もあって、1909年には綿布の輸出額が輸入額を上回った。ここにおいて綿糸・綿布は、従来の生糸と並んで、日本の外貨獲得のための主要輸出品となったのである。なお同年には、富岡製糸場の女工たちが全国各地に伝えた器械製糸技術の貢献もあって、日本の生糸輸出量は世界一に達している。ただし、各地の民間工場の労働条件は厳しく、映画「あゝ野麦峠」のモデルとなった長野の製糸工場では1日14時間20分の労働で土日の休日もなく、休みは盆と正月だけであったという。こうした過酷な労働と搾取によって、日本の「国際競争力」は向上していったのだ。
重工業部門では、まず鉱山業が発達したが、これも過酷な労働に支えられてのものだった。1880年代から90年代にかけて各地の鉱山や官営工場が次々と民間に払い下げられた。それらは三井・三菱・住友・古河などの財閥の蓄財基盤となった。1900年、日清戦争の賠償金の一部を投じて北九州に官営の八幡製鉄所が完成する。中国の鉄鉱石を原料とし、筑豊の石炭を燃料として、大量の銑鉄・鋼材を生産し、日本の重工業発展を支える大製鉄所となった。
官営事業の多くが民間に払い下げられたのとは逆に、鉄道は国有化が進められた。鉄道の軍事的側面が重視されたからである。1892年の鉄道敷設法によって、県庁所在地・師団司令部・軍港所在地に鉄道が通されることになり、更に1906年には鉄道国有法によって全国の鉄道の九割以上が国有化された。まずは軍事。この風潮は、産業革命においても一貫していたのである。